(イラスト=大紀元)

【党文化の解体】 序

【編者注】大紀元時報は、中国共産党の本質を明らかにした連載社説『九評共産党』(邦訳:共産党についての九つの論評)を2004年11月に世に示し、さらに、2006年9月~11月にかけて、『解体党文化』(仮題:党文化の解体)を発表しました。『党文化の解体』は、中国共産党の体制下で作り出された変異した文化である「党文化」を徹底的に解剖し、「党文化」により中国共産党の悪性を注入されてきた中国人の盲従の鎖を断ち切るのみならず、「党文化」の害毒を近隣国として吸い込んできた日本人の幻想の霧をも晴らす覚醒の書であります。邦訳の連載は、本サイトが日本初公開となります。本連載にご期待ください。

 

【党文化の解体】序

 

 地球の東方で生活してきた中国人は、果てしなく広大な大地の上で、風俗がそれぞれ異なり、方言や訛りも千差万別であるが、結局何がこれら中国人をつなぎとめて一つにし、中国人を中国人たらしてきたのだろうか?それは同じ地域に暮らしているというだけでなく、更に重要なのは文化と伝統である。数千年来、中国人はともに天地を敬い、共同の先祖を祀り、共通の文字を使用し、同様な典籍を学習してきた…。それは、西洋人の目には、かつて「礼儀の国」として映ったものだ。

 しかし、同じ土地に暮らしていながら、今日の中国人は歴史上のどの時期とも異なるものとなった。小学校から大学に至るまで、中国人は簡体字で編纂された教科書を使用し、その必修課目は、二人のドイツ人が百年余り前に創立した、いかにして世界を潰すかという理論と、一介のロシア人がこの理論を応用した暴力的実践である。中国人は、かつて歴史的な伝統と係わりのあるすべてのものを「四旧」(四つの古いこと)として、燃やしたりこなごなに壊さなければならないと教えられた。中国人の今日の言語、風俗、習慣、思考方式は、かつての歴史上のものとは全く相いれないものとなり、伝統文化とも、世界とも同様に相容れないものとなってしまった。中国人は、自分たちがどこから来てどこに行くのか分からなくなり、自己を喪失した民族になってしまった。中国人の血脈は相変らずつながってはいるが、中華文明の薪と炎の伝承は、もうすでに切断された。文化的に見れば、中国人はすでに亡国の奴隷のようなものであり、それは決して誇張ではない。

 ヨーロッパとアジア各国を見渡しても、現代的進化の過程において、これほど徹底的に民族性を喪失したケースは、これまでなかった。もし高度の科学ハイテク技術の工業的要素を取り去ったとしても、日本人の場合には、相変らず伝統的な日本人の面影を見出すことができる。中国人から見れば歴史などないも同然のアメリカ人でさえ、 200年前の独立戦争当時と似ている所が数多く残されている。中国人の変化は、工業化・現代化の過程の中で避けられない自然のものではなく、強制的、人為的な過程とその結果だ。この変化は 、1949年から始まって現在までずっと続いている。古い世代は強制的に伝統を放棄させられたのだが、新しい世代はこうしたものが至るところに充満している環境の中で成長したため、これが中国人であり、中国文化なのだと思ってしまう。これこそがまさに、中国共産党が中国大陸で創造した文化的な奇形胎児「党文化」なのだ。

文化という言葉自体は、本来正確に定義付けるのがとても難しい。現代的な「文化」の意味は、おおよそ19世紀後半に徐々に定められていった。1952年アメリカのクローバー(Kroeber)とクラックホーン(Kluckhohn)は共同著書である 『文化―概念と定義の批判的概観』(Culture: A Critical Review of Concepts and Definitions)で 「文化は、思惟と行動のモデルの明示的なものと暗示的なものから構成される。そのような行動モデルは、象徴的な符号を通じて獲得されて伝承される。文化は人造的な器物の中で体現され、人類群体の著しい成就を代表する。文化の核心部分は、伝統的な(すなわち歴史的に獲得されて選択された) 概念で、特に彼らが持って来た価値だ。文化体系は一方では活動の産物であり、他方では更なる活動を決める要素だ」と述べた。この定義は、後代の学者らの大部分が受け入れている。

 この定義の中では、文化には二つの部分が含まれる。一つは内在的な価値観で、もう一つは思惟と行動のモデルの明示的なものと暗示的なものである。いわゆる党文化とは、まさに共産党の価値観を基礎にして成り立った思考方式、言語体系及び行動様式をいう。ここで特に指摘すべきことは、党文化には、 3種類のものが含まれるということだ。第一種は、共産党が強制的に構築して注入した文化。第二種は、民衆たちが、中共の暴力と嘘の下で生活して、自分たちを保護するために生成した変異された文化。第三種は、昔から存在して来た粕に、中共が新しく理論的に包装して広く普及して充分に実践した文化だ。

 他の文化体系の中では、窮極的な価値観は皆世俗を超越した最高権力の存在に由来している。古代社会では、この役目を担ったのがまさに神であったし、現代社会では神と法律とが、共同で担っている。すべての伝統文化とは違い、共産党の価値観は、一種の絶えず変えられ調整されてきた動的な体系で、その核心部分は簡単に言うと権力と利益だ。党文化の下では、中国人の先祖たちが残した「半神文化」は、現在の中国人からは遥かに遠くなり、そのように美しいものがかつて存在したということさえ信じようとしない。その先祖が、中国人たちに教えてくれた天地神明に対する敬畏は、今日の「天と戦って地と闘争する」というものに取って代わられたし、殊勝の修煉文化には、封建的な迷信というレッテルが貼られた。歴代王朝の先人賢哲たちは、いとも簡単に階級的な立場というもので踏み付けられてしまい、数千年このかた、徳を重んじ善を行うという「仁義礼智信」の美しい価値は、封建的な粕として、物笑いと諷刺の対象になった。これにとって代わるのは、天に反し、地に反し、人間性に反する、中共の邪悪な党文化の体系だ。そこでは、道徳原則の最高基準は、党の権力と利益になった。中国人の一言一行、一思一念は、いかなるときも党文化によって左右されないことはなく、その被害をひどく被ってもそれを察知することができず、更にはそれから脱して正に帰することが難しいのである。

 本シリーズの文章では、中共が如何にして体系的に伝統文化に取って代わったか、如何にして体系的に思想改造を進めたか、どのような手段で注入したか、ならびに思想改造された後の中国人たちがどのような行動、態度をとるようになったかを分析するものである。宣伝の中でよく見かける党文化、党文化の言語体系、生活中の党文化及び習慣的な党文化の思考、これらの思想、言語及び行為に広く存在している具体的な現れに関しても、本文で詳しく論述するものである。

 落ち葉は落ちれば根に帰る。自分の根に対する中国人の探求と渇望は今まで枯渇したことがない。最近海外で、「中華の子孫になろうと思ったら、マルクス・レーニンの子孫になることなかれ」という言葉が流行している。これは、幾多の海外華僑たちに、自己の民族性に対する強烈な帰属感を燃えあがらせるものである。党文化を冷静に見つめなおし、それを放棄し、マルクス・レーニンの悪性腫瘍を駆除し、党文化を解体し、中華民族の正統文化に回帰し、民族の神韻を回復すべきであり、今がまさにその時なのだ。

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