社会保障で貧困問題を解決できない
貧困は世界で最も古い問題の一つだ。歴史の大部分において、それは手に負えず、避けられないものだった。今日の米国の貧困に関して、いいニュースと悪いニュースがある。
いいニュースは、経済的に困難な人を含むほとんどの米国人は、1900年にはほとんど想像できなかった程の豊かさを享受していることだ。過去120年に起こった無数の科学的や技術的革新により、一般的な米国人は、ビクトリア女王やほかの19世紀の君主たちでさえ持っていなかった快適さと贅沢を手に入れた。今日の米国人の平均的な貧困層は、1950年の平均的な中流階級の米国人と同じ経済的生活水準を持っている。
悪いニュースは、米国には今も消えない貧困に苦しむ地域があることだ。「平均的な」生活水準の統計を見ているだけでは、とても貧しい米国人がいるということは分からない。
私たちにできること
私たちにできることは、二つに分かれている。一つは、貧しい人たち自身がどうしたら貧困から抜け出せるか。そして二つ目は、それ以外の人たちがどう貧困層の人たちを助けられるかだ。
貧困層以外の人たちが貧困を取り除くために何ができるかという質問に、簡単な答えはない。しかし確かなのは、限られた資源を解決につながらないことに使うべきではないことだ。政府の社会保障を拡大すべきだという意見があるが、その問題点は、連邦政府がどれほど貧困対策にお金をかけても、貧困率はほぼ同じ値を保っていることだ。
Heritage Foundationの「Total Means-Tested Welfare Spending and Official Poverty Rate, 1947-2012」のグラフを見てほしい。これは米国の公共政策におけるもっとも重要なグラフだ。
連邦政府が「貧困との戦い(War on Poverty)」を始める前、貧困率は長期的な下降傾向にあった。しかし「貧困との戦い」が始まった後も、政府が貧困対策のプログラムに25兆ドルを費やしたにもかかわらず、過去50年間の貧困率は11%から15%を維持したままだ。
赤いグラフが示すように、毎年私たちはより多くのお金を貧困対策に使ってきた。しかし貧困はなくならないどころか、改善さえしなかった。これから言えることは、政府に貧困を解決する能力はないということだ。米国民は過去半世紀にわたって、多くの税金を払ってきたにも関わらず、税金は効果的に使われてこなかった。
日本の例を見てみよう。日本では貧困につながるような問題行動(ドラッグ、アルコール、暴力、未婚出産)が極めて少なく、GDPに占める社会保障費用の割合が米国より高いにも関わらず、貧困率は米国とほぼ変わらない。つまり日本でも、社会保障により多くの予算を費やしても貧困は改善されていない。繰り返し言うが、政府に貧困を解決する能力はない。統計上での貧困を減少させることはできるが、効率が低く、巨額の予算が必要だ。
政府が貧困問題を解決できないのなら、だれができるのか?民間部門に目が向けられる。民間部門は「貧困との戦い」が始まる前、米国の貧困率の低下に貢献してきた。もし政府が貧困対策に費やした25兆ドルが民間部門に使われたのなら、何万、何十万のビジネスと何百万もの雇用が生まれていただろう。
確かに資本主義はすべての人に豊かさを保証できないし、そもそもそれを保証するためのシステムではない。しかしだからといって資本主義を非難、批判、放棄し、代わりにほかの経済システムを導入する理由にはならない。資本主義は自由市場を可能にし、ほかのどの経済システムよりも多くの富を生み出し、より多くの人々に繁栄をもたらしてきたからだ。あのカール・マルクス(Karl Marx)でさえ、資本主義はより多くの富を生み出すことができると認めている。
ユートピアではない
資本主義は経済生産のための計画されたプログラムではないことを忘れてはならない。私たちが「資本主義」と呼ぶものはただ単に、人びとが自由にあらゆる合法的活動を行うことが出来る枠組みでしかない。もちろん、それは他人の権利を侵害しないことが前提だ。そもそも資本主義は全ての人の繁栄を保証するようには出来ていない。資本主義はただ、自分の能力、自発性や人間力を最大限に活用して、繁栄の為に努力をする自由を保証しているだけだ。
一方、社会主義は仕事、つまり収入源をを保証する。(少なくとも旧ソ連版の社会主義はそうだった。アレクサンドリア・オカシオ=コルテス議員(民主党、ニューヨーク州)と今日の民主社会主義の政治家たちは、働きたくない人たちを含む全ての国民に収入を保証することを唱えている。)しかし私が前に説明したように、社会主義は必然的に貧困に陥る。その理由は、社会主義はインセンティブに影響を与え、更に経済活動の調整と収益性の計算に必要な経済的に明白な価格システムが欠けている為だ。社会主義の元で行われる生産は消費者が望むものを作るのではなく、担当するエリート政治家が指示したものを作っている。それによって人々が更に貧しくなるのは、経済学の学位がなくても簡単に想像できる。多くの人々に長期的な成長と繁栄をもたらすという点において、社会主義は資本主義に遠く及ばない。
資本主義はユートピアではなく、誰も貧困に陥らないという保証はないが、もっとも広く豊さの分布をもたらす。一方で社会主義はユートピアを唱え、誰も貧しくならないと保証するが、実際には大部分の人々(政府のエリートとその仲間たちを除くほぼ全ての人たち)の生活水準は資本主義よりはるかに劣る。なんという皮肉だろうか。ここで、賢明なアドバイスを思い出してみよう。「完璧」の為に「良いこと」を手放してはいけない。ここでいう「完璧」とは社会主義のことで、「より優れ、公平」だと唱えられているが非現実的だ。「良いこと」とは資本主義であり、人類が知る限り最も生産性の高い富を作り出すシステムだ。
自発的な慈善活動
では、資本主義の元でどうすれば貧しい人たちにもっとチャンスを与えられるだろうか?正直に申し上げると、私自身はそれが分からない。しかし私たちの社会には助けになってくれる人たちがいる。起業家たちだ。しかし彼らは頻繁に政府の過度な干渉(税金、規制、不必要な免許、税金に後押しされた競争相手などの障壁)に苦しんでいる。政府の干渉がなくなれば、新しい雇用と富が貧困率を下げるだろう。更に、新しく築かれた富の一部は民間の自発的な取り組みの資金となり、ホームレスなどの最も恵まれない貧困層に手を差し伸べることができる。
アダム・スミス(Adam Smith)は1759年、「道徳情操論(The Theory of Moral Sentiments)」という本を書いている。この本でスミスは、一部の人の財産を取り上げて他の人に再配分する政府のプログラムに、論理的理由で反対している。歴史を勉強し、人間性と経済的インセンティブを理解する彼は、国民の財産権を取り上げ、公平さを侵害する社会は、滅びる運命にあると警告している。財産権を踏みにじることはまさに、今日の平等主義者(egalitarians)、社会正義の戦士(social justice warriors)たち、そして民主社会主義者が毎日行なっていることだ。スミスは、露骨な不正行為としてそのような行為を非難するだろう。
それでは、どうすれば貧しい人たちを助けられるだろうか?スミスなら、「自発的に」と言うだろう。スミスと他の米国の建国の父たちにとって、正義(神から与えられた、人間の不可侵の権利の保存)とは不可欠な社会的美徳だった。よって慈善(自発的、または市民や教会の自発的団体の一員として手を差し伸べること)は良い社会の最も大切な部分だ。実際、スミスは自発的なキリスト教の慈善活動を承認し、実践した。生涯独身で質素な暮らしをしたスミス。彼の財産の管理人は、彼が長年に渡って年収の半分を貧困層に与えていたことを発見した。
どうすればこの国にキリスト教の慈善の精神を再び浸透させることができるか、私には分からない。しかし、貧困層の為にそれが出来ることを願っている。キリスト教の価値観を復活させ、健康的で自由な私有財産の秩序により得られる貧困を減らす効果は、いかなる一連の政府プログラムも達成できない。これは一夜で出来ることではなく、また私たちは地球を天国のように変えることなどできない。しかし、自由な人々と自発的な行動は貧困対策の進歩に繋がり、他のアプローチによってもたらされる経済的、論理的、政治的破産の落とし穴を避けることが出来る。
執筆者紹介
マーク・ヘンドリクソン(Mark Hendrickson)
経済学者。グローブシティーカレッジ(Grove City College)を最近退職し、保守系シンクタンク「信仰と自由のための研究所」(Institute for Faith & Freedom)で経済および社会政策のフェローを務めている。
この記事は英語版大紀元への寄稿記事です。
(大紀元日本ウェブ編集部)