挫折してこそ人間は強くなれる(容乃加/大紀元)
粘り強さ

不運に遭っても内省し、成功の道へ

中国の戦国時代の有名な弁論家・蘇秦(そしん、 紀元前382年)は、かつて鬼谷(きこく、遊説や外交の専門家)の弟子でした。貧しい農家の家に生まれた彼は、勉学をする傍ら、自分の髪を売ったり、代筆をしたりして生活を支えました。人の代筆を請け負ううちに、たくさんの知識を吸収していきました。

ほぼ全ての知識を習得したと感じた蘇秦は、遊説に出ることにしました。しかし、誰も彼を推薦してくれる人はおらず、周の皇帝に謁見することは叶いませんでした。そこで彼は、西側にある秦の王、恵文王に六つの国を合併して天下統一するという計画を提案しました。しかし恵文王は、「そなたの考えはとても良いが、私にはまだできない」と断りました。彼の意見は採用されず、官職さえも得ることができませんでした。彼は一年ほど秦に留まりましたが、貯めた旅費も使い果たしてしまったため、長い帰途の旅につきました。

ぼろぼろの服を身にまとい、やっとの思いで蘇秦が家に着くと、両親は官職につけなかった彼を罵りました。妻の態度は冷たく、兄嫁は皮肉を言って嘲笑いました。蘇秦は心を痛め、自分のふがいなさを悔やみました。

その時、蘇秦は聖賢の言葉を思い出しました。「自分の行いに対して何の報いも得られなくても、反省し、決して天を恨んだり人を咎めたりしてはいけない」。彼は自分の勉強不足が原因で、人々に道理をきちんと説明できていなかったことが分かりました。将来に見込みがあるかどうか、また事業が成功するかどうかは、全てその人物がどれだけ必死に勉強したかによるものだと悟りました。彼は努力不足の自分を恥じ入り、改めて勉学に励むことにしました。

昼間は働き、帰宅してから夜中まで勉強しました。勉強中に居眠りをしてしまうことを防ぐため、髪の毛を樑に吊るして頭が下がらないようにしました。眠気に襲われると、きりを自分の太ももに刺して勉強を続けました。これが「懸樑刺股」(頭髪をひもでくくって梁 につなぎ、きりでももを突き刺す)という故事成語の由来です。

苦労してもう一年勉強した蘇秦は、兵法を習得し、各国の諸侯の特徴や利害関係を研究しました。蘇秦は再び游説の旅へと出かけました。

今回の旅で、蘇秦は大成功を収めました。紀元前333年、各国の諸侯は正式に合従連衡(がっしょうれんこう)を締結しました。蘇秦は人々から縦横家(諸子百家の一つ。外交の策士で各国の架け橋となった人のこと)に推薦され、同盟の取り決めはすべて彼が行うことになりました。母親は息子を褒め称え、妻や兄弟、兄嫁は彼に頭が上がりませんでした。彼は昔の恨みを気に留めることもなく、家族を養いました。惨めで貧乏だった蘇秦は、威風堂々とした人物になりました。

夢が破れ、家族からも見下された蘇秦。彼は挫折の中にいても自分の不足を見つけ、たくましく立ち上がり、大事業を成功させました。高い道徳心を備えた大人物として、後世に語り継がれています。

〈通鑑記事本末〉より

(翻訳編集・淳萌)

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