いまの天安門は築46年 築浅「歴史的」建造物

北京の天安門。市の中心に位置し、現代中国のシンボルとして国章にも用いられている。最初に作られたのは今から約600年前の1417年。明朝の三代皇帝、永楽帝が建造し、その当時は「承天門」と呼ばれていた。その後、1644年に明朝の滅亡とともに焼失したが、1651年に清朝の順治帝によって再建され、この時に名前も「天安門」と改められた。

だが、現在私たちが見ている天安門が、実は清朝に建築されたものではないということを知る人は少ない。元の天安門は、文化大革命のさなかに秘密裏に解体、再建されてしまったため、現在の天安門は、一見したところ築数百年の歴史的建造物だが、実際には「現代の建築物」というのが真相だ。

中国メディアによると、1960年代の後半には、築数百年の天安門の構造部分が老朽化して既に深刻なダメージがあり、楼閣の主要部分がその重さに耐えきれなくなっていた。さらに1969年、河北省邢(けい)台市でマグニチュード6~7.5の巨大地震により構造が激しく変形。同年、国務院が天安門を建て直すことを決定した。

▶ 続きを読む
関連記事
1989年6月4日に天安門事件が起きてから、江沢民は常に恐怖と戦っている。人々がこの事件の真相を語り虐殺の責任を追及するのではないか、趙紫陽の名誉が回復されるのではないかと恐れているのだ。
香港メディアによると、中国共産党政治局は、中紀委書記王岐山氏が提出した毛沢東紀念堂の移転計画を通過させたことが明らかになった。また習近平国家主席は会議後に「来期の就任中でも必ず決着をつける」と、移設に固い意志があることも述べたという。
 北京市の天安門広場で1日、子供たち3人が、陳情者の子であり北京市の戸籍がないため教育を受けられないのは不当との不遇を訴えていたところ、警察に拘束された。3人の子供たちは勉学への意欲がひと際強く、自主的に北京の政治中枢である中南海で陳情を続けていた。
 これは、90年代生まれの女性の自叙伝。多子家庭の貧困、名字によるいじめ、法輪功修煉で一家弾圧、拷問、監禁―。まだ20代の蒋煉嬌さんは、すでに苦の中の苦を体験してきた。2016年10月、信条の自由を求めて、蒋さんは中国を離れた。本稿は彼女のインタビューに基づいて整理・編集したもの。