【大紀元日本1月27日】
鞭声粛粛夜過河
暁見千兵擁大牙
遺恨十年磨一剣
流星光底逸長蛇
鞭声粛粛(べんせいしゅくしゅく)夜、河を過(わた)る。暁に見る、千兵(せんぺい)の大牙を擁(よう)するを。遺恨なり、十年一剣を磨き、流星光底(りゅうせいこうてい)長蛇を逸す。
詩に云う。むち音も立てず、粛々と、夜、川を渡る。夜明け時、敵の大軍が、大将旗を掲げているのを発見した。そこへ、十年も磨きぬいた一剣をふりかざして、流星のように深々と斬り込んだが、敵の大将を逸したのは残念であった。
作者の頼山陽(らいさんよう、1781~1832)は江戸後期の歴史家で、思想家でもある。山陽の著書『日本外史』は、幕末の尊皇攘夷運動や勤皇思想に大きな影響を与えた。
父の頼春水は安芸の出身。その父が私塾を開いていた大阪で山陽は生まれた。同じころに父が広島藩の儒学者に登用されたため、山陽は転居した広島城下で育つ。幼少のころから詩文の才に秀でていたという。なお、若いころは福山の菅茶山にも学び、茶山が開いていた廉塾の塾頭を務めた時期もある。
詩吟「川中島」で知られる両雄一騎打ちの場面があまりにも有名なため、この詩が上杉謙信の作であると誤解されることも多いようだ。
題名の不識庵は上杉謙信の法号、機山は武田信玄の法号である。言うまでもなく、謙信と信玄が激闘を繰り広げた川中島の合戦(1561)で、謙信が単騎で敵の本陣へ斬り込み、これを信玄が軍配で受けて応戦したという故事にちなんでいる。
史実の合戦の時には、謙信はまだ上杉政虎(それ以前は長尾景虎)を名乗っており、法号を用いるのはその8年後である。また、大将自ら斬り込むという大胆すぎる設定も、後世の創作とされることが多い。
ただし、「越後の虎、上杉謙信ならば、あり得るのではないか」と思わせる迫力がこの詩にはある。創作がいつしか「史実」となる好例の一つであろう。
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