【党文化の解体】第4章(17)

【大紀元日本6月24日】

4.党文化がなければ、もはや正常な話し方や思惟ができなくなっている中国人

 4)党文化という決まり切った思惟方法から抜け出せない中国人(上)

党文化は生活の中で一つの「場」を作り上げた。党文化に順じて話し、思惟すれば、まるで「渡りに舟」「魚に水」の如きで、とても「自然」になり、「意気盛ん」である。反対に、党文化の中の変異した思惟を明らかにしようとするならば、まるで「流れに逆らって舟を進める」かのようである。こうなればなるほど、人々は党文化が恋しくなり、なかなか党文化の中から抜け出せなくなるのである。

一つよく見られる現象は、人々は共産党に対する「愛」をもって共産党の替わりに言い訳を探すと同時に、共産党に対する「恨」をもって共産党の替わりに自己弁護する。すなわち、「経済の表面的発展」をもって中共のために粉飾をかける。或いは「中共が強権だから、人殺しにも目をつぶる」をもって中共の悪行を暴露する努力に抵抗し、「仕方がない」と思っている。それによって中共の統制を維持し続ける。また、一方で、「多党制はすでに人々の暗黙の了解であり、多くの共産党員はこの問題を認識しているので、中共もいつかこの道を歩むはずだ」というプラスの思考で中共を讃える。もう一方で、人々は民主党派を組織しようとするとき、「そんな出鱈目なこと、中共は強権で、そんなことをしたら、許されるものか」というマイナスの思考で中共による統制現状を維持しようとする。中共に対する愛をもって党文化の中から共鳴を感じることもできるし、中共に対する恨をもって党文化の中から怒りを発散することもできるから、党文化は閉鎖的体系となり、完全に人々の共産党に対する「愛・恨・情・讐」の感情を満足させることができるようになり、離れさせないようにする。

一つ簡単な問題を例に挙げよう。「共産党は八千万人の中国人を殺したことに関しては、清算すべきであるか否か」と言う問題だ。もし正常な思惟ロジックからすれば、人を殺せば命をもって償うのは、容易に回答が出されるところであり、清算されるのは当然のことだ。しかし、今日の多くの中国人はこのような簡単な問題を答えることはできないのである。彼らは廻りくどく問題を複雑にしてしまう。「何で八千万人殺したと言えるのだ。四千万の餓死者が出たというが自ら見たのか」と聞き返す。しかし、中共自身が公表した資料でもこのような多き数字を出しているのに。もしこれらの資料を彼らに見せたら、彼らは「これは歯に歯をではないか。過ちを犯す人に許すチャンスを与えるべきではないか」と聞き直す。しかし、もしそうであれば、法廷上で自己弁解する犯人に許してやる機会を与えるべきだと言うのか。彼らはさらに「これはすべて共産の過ちではないだろう」「アフリカにも多くの国で大虐殺があった」「今の共産党は変わった、何で過去のことにしつこく執着するのか」「共産党は何者だ、共産党を清算出来る人などいるものか」などのことを答えてくる。最後まで、どうしても正常な思惟をする人の簡単な答え―清算すべきかを問い詰めたら、ここまで追い詰められたら、彼らは今度大逆転に、「共産党に対抗するなら、なんのいいこともない」「この問題は何の意味もない」と言うのだ。総じて言えば、共産党はいくら人を殺しても、追求する必要がないという考えだ。このようにして、中共は勝手気ままに悪事を働き、法外へ逍遥してしまう。

(イラスト=大紀元)

上の例を見て、彼らに党文化を除いてからこのような簡単問題を答えさせようとするとき、彼らは「意味がない」と言う言葉をもって敷衍する。党文化から離れると、彼らは本当にどういう風に思惟すればよいのかが分らなくなっている。共産党は彼らの思惟のボーダーラインとなっており、如何なる「もし共産党がなければ」「共産党を清算する」と言ったような思惟は彼らにとって、恐怖そのものであり、想像し難いものである。彼らが最後に切れてしまうのは、彼らの心の底にある共産党に対する恐怖心を触れられたくないし、さらに彼ら自身の党文化の要素を正視したくないからだ。

もう一例、人々はよくこのような話で中共の政策を容認しようとする。「私が_deng_小平だったら、私も銃で六四(1989年6月4日天安門事件)を鎮圧する」「私が江沢民だったら、私も法輪功を弾圧する」「私が共産党だったら、私も独裁専制をやる」等等。人々はこのような話をするには、とても自然で、安全であると感じるのだ。ある事情は「そうであるべきか否か」を判断するときに使う「もし私が×××だったら」と言う表現は、本来ならば、それは自分自身のことでないのに対して、仮にそれは自分自身のことであるとするならば、このときの「我」の態度はどうなるのかを判断する表現である。しかし、共産党のことについて、この表現を用いる場合、「もし私が×××だったら」は「他人(共産党)はそうであるべきか否か」を「私がそうであるべきか否か」に取って変わった。このとき、重要になるのは、「我」の態度ではなく、共産党の態度はどうであるかを表現することとなり、「我」は隠されてしまったのである。ついに中共の悪行を黙認し慫慂してしまう。さらにあなた本人はどういう態度なのかを追求した場合、私の態度は重要ではない、「意味がない」と答える。言い換えれば、正常な思惟の状態へ戻るとき、「意味がない」と思ってしまうのである。実は、人間はよい人間を目指して、自分自身のことを歴史上の正義たる人間に例え、中共が民衆を迫害するときに自分がどうすればよいのかを考えるべきではないだろうか。仮に気が小さく、「もし私が高智晟弁護士であれば、私も中共により迫害を受けた民衆のために人権保護活動をやる」と言えなくても、絶対に自分自身のことを強姦犯、殺人犯あるいは独裁者であると例えるべきではないのではないだろうか。この例えは恥をかくものではないだろうか。

党文化の中国人の思惟に対する制限も、社会生活の隅々までに浸透している。無神論を基礎とする党文化の中で、超階級的な普遍的価値は存在しないと言う。まさに毛沢東が言うように、「世の中には何の理由も原因もない愛は存在しないし、何の理由も原因もない恨も存在しない」。過去の中共は自由、人権等の普遍的価値を認めず、これらを一概に「資産階級的(ブルジョア)」と言った。だから「虚偽的」であり、「無産階級(プロレタリア)」はこれを必要としない。今日の中共では、「中国の国情が特殊である」がそれに換わり、それらを拒否する。党文化のこの種の狭義的な思惟の左右により、特に当代社会の道徳的低下、信用の危機、「善悪には報いがある」は「人騙しの迷信」と貶められ、大勢の人はもはや良知や道義を信じなくなってしまったのである。

中共は長期的にわたり、赤裸々の宣伝や陰日向に「中共の指導者」の偉大さを暗示してきた。昔のマルクス・レーニン・エンゲルス・毛沢東の「偉大」、「紅太陽」たる指導者から今日の「改革開放の総設計者」「前人の事業を引き継ぎ、将来の発展に道を開く先導者」へと変わり、多くの中国人は宗教的心理で「中央指導者」を信任する。多くの人は地元の中共官僚の腐敗堕落をはっきり分かっているのに、「中央指導者」に対する好印象はまったく悪影響を受けない。「中央指導者」は皆地方から一歩一歩積み上げてきたのを知りながら、なぜ腐敗堕落の地方官僚は一旦「中央指導者」へ変身すればすぐ「英明」になるのをまったく考えもしない。こうして、悪事はすべて地方官僚が「中央」を騙してやったこととなる。重大問題は「中央を驚かした」とか、あるいは「中央から官僚が遣って来た」とかのようになれば、人々は問題の解決の希望を見えたかのようになる。中共により何十年に渡り国民の生計に関わる諸社会問題をもたらしたことに対して、一方的に「中央の指導者」は必ずや解決の方法を持っていると信じようとしても、自由民主の国家の民衆のように、自ら国家や社会に対して独立的に思考し自己の見解を提示しようとしない。中共が法輪功を弾圧することに関しても、多くの人はなぜ中共がこのような民間の気功団体に対してこれほど大げさにしなければならないのかを理解できていないにもかかわらず、第一の反応は、往々にして「中央はこうやるのは必ずそれなりの道理がある」と言うのだ。「党中央」を自分の脳の代わりに思考してしまい、「法輪功団体は到底違法しているか否か」、「中共はこの方法で処理するのは合法的であるか否か」などについての理性的思考はまったくしない。中共の三峡ダムプロジェクトが始まった後、海外の専門家はそれについての実行可能性は重大な問題があると指摘した。すると、ネット上からすぐに反論の声が上がって、海外の専門家の水準を疑問視し、曰く、「それが本当であれば、中国の中央から地方までの官僚たちは皆阿呆でなければ気違いであるに違いない。そうでなければ、どうしてこのような愚かなプロジェクトを実行させたのか」という。言わんとすることは、「英知たる指導者たち」は愚かなことをするわけがない。私利私欲がないはずだ。だから、「愚かな民衆」は不必要な心配はいらないというものだ。

(続く)