≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(76)
私と弟は、水入らずで話すことはありませんでしたが、この目で弟を見ることができるだけで満足でした。弟が日を追うごとに成長するのを見て、ことばに表せない喜びを感じました。当時、弟を見たり、弟のことに思いを馳せると、東京にいるおばあさんや姉のことを思い出しました。また、父や母と別れたときの情景が思い起こされました。
このように、幼少時期のことを忘れることなく、しっかりと記憶に留めることができましたが、それは、こうして弟が長い間そばに居てくれ、心の支えになってくれたからに違いありません。
ほどなく、冬休みに入りました。この年の冬休みには、仲間が一人増えました。中学三年一組の関桂琴です。彼女のお父さんはちょうど病死したところでした。
関連記事
私と弟は、水入らずで話すことはありませんでしたが、この目で弟を見ることができるだけで満足でした。
弟の悲惨な死 孫おじさんから亡くなったてからというもの、私は総じて喪失感に似たものにとりつかれ、精神が不安定になり、何をしても手につきませんでした。
沙蘭はあたり一面真っ暗でした。すでに深夜になっており、明かりを灯している家はほとんどありませんでした。峰をおりる時、小走りに歩を進め、村に入ってからは真っ直ぐに趙全有の家を目指しました。
趙おばさんはひとしきり泣くと、泣き止みました。そして、こう話しました。「全有は帰ってきた次の日に発病し、高熱を出したんだよ。病院の先生は、ペニシリンを数回打てば良くなると言っていたけど、私はあんなものは信じない。
その時、私は溢れ出る涙を抑えることができず、弟に何を言えばいいかわかりませんでした。
帰って来る道中、張小禄おじさんが私に言いました。「全有は、養母に殺されたようなものだ。もし養母が金を惜しまずに、医者に診せて注射でもしてやっていたら、死ぬこともなかったろうに。
趙おばさんはこの時になって、私に養女にならないかと言ってきました。それは当時のように私を追い出すような口ぶりではありませんでした。
中学卒業と高校受験、趙おばさんの死 学校が始まった後、私たちは高校に進学するため、毎日勉強に忙しく、私はずっと沙蘭に帰ることができませんでした。
私たちが中学を卒業した57年は、高校の受験は大変に困難でした。