【大紀元日本8月26日】「道」の本来の意味は道路だが、普通の一般道路ではなく、人類が歩みだすべき、最も重要で根本的な始めの一歩にあたる道である。
一般人にとっての「道」は、人生の道であり、一個人の人生観、社会観、世界観、宇宙観、哲学観を指し示してくれる。
修煉者にとっては、この「道」は佛家の言う「佛法」であり、これによって修成した仏陀の道を指す。道家では「道」によって修成した真人の道を指す。万有宇宙の本源は「道」であり、宇宙の最高特性である「真、善、忍」としても表現される。
『説文解字』によると、「道」は次のように定義されている。「道、道を行く所也。走と首とから成る。これに達するを道という。導とは、文語文の道、第一歩から」
「道」とは、すなわち道路を行くという意味である。「道」の字のシンニュウが「走」(中国語では歩くという意味)に相当し、さらにこれに「首」が組み合わさった字である。つまり、「道」とは、第一の、最も重要視されるべき道路の意味である。
道は「首」と「行」の組み合わせとも言われる。この「行」という字を散策してみよう。彳(chi)+●(chu)。「短時間」と「ゆっくり歩く」の意が合わさり、「行」の字ができた。同じく『説文解字』をひも解くと、「行とは、歩行なり、通行なり、道のりなり。行とは、人の歩みが快いことなり」とある。
『易経』では、「一陰一陽、これを道という」とする。また、前述の『説文解字』には、「一に達するを道という」ともある。「達」の字は、シンニュウに大の字が組み合わさってできた。「達する」とは、通暁すること、「道」に達することを意味する。道に達するとは、人が共に立つべき路を最大限に見究めることである。
「道」の字には「首」がある。
「混じり合った物が在り、先ずは天地が生まれた。それは寂静として、独立して変わらない。周行して已まず、天下の母となるべし。吾はその名を知らず、これを名付けて道といい、強いてこれを大という」。(老子・第25章)
つまり、この道の本体とは、「大」であり、「首先」であり、また「天下の母」でもある。
太極の生まれる前、太極を生むものがあった。それは「道」と呼ばれ、「一」と言われた。
老子によると、世界の一切は、この「一」によって生まれたものであり、この「道」から出てきたものである。それゆえ、「道」は最大であり、最も古く、最も原始的で、最も基本的なものなのだ。
それでは「道」を部首とする「導」とは何か。再び『説文解字』をひも解くと、「導とは、導引なり。寸と道とから成る。」とある。この部分は、「導引の字は、寸の字からなる」との解釈もある。古代では気功を「導引」と称した。「導」とはすなわち古文の「道」であり、「首寸」もまた古文では「道」であった。首寸とは導引の専門用語である。例えば華佗の「五禽劇」は、古代の有名な導引である。「導」の字になぜ「寸」の字が含まれるのだろう?古代には「寸心」(心が胸中にあるので寸心と言った)、「寸田」(道家のいう丹田)という言い方がある。つまり、この「寸」は心を指す。「導」という字が、「寸」、「首」からできているということは、まず「心」から始めるということだ。導引(つまり気功)は性命双修の修煉方法で、ただ血気を練るだけでなく、人格面を養うことが大切なのだ。もし気功を訓練して、もっぱら血気を練り、周天を通したとしても大したことはなく、「心」から修煉をして、人格を向上させ、文字通りその次元を「導引」することが大切なのである。
(●=「行」の右側の部首)
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