天上界にだけある偉大な舞台芸術

【大紀元日本1月30日】[編集者注=作者劉路氏(1964年生)は、本名李建強、中国の著名人権弁護士。著作:『弁護士、危険な職業』『明日の曙を仰ぐ』『大犬も子犬も吠える権利あり』『自由のために弁ずる』など。これまで杜導斌、張林、師濤、力虹など、中国の自由派作家、人権活動家、家庭教会の信者等のために弁護活動を行い続けていた。そのため、営業許可が二回取り締まられ、今も営業不能状態にある。目下、米国ニューヨーク滞在中。]

神韻芸術は素晴らしい」と早くに聞いていたが、常に疑心も持っていた。すなわち、この公演は信仰をもつ団体が主催しているからには、それはどれほど専門性があり、芸術が政治や宗教的な説教に釈義されうるか否かなどなどであった。

しかし、神韻の公演を続けて二回鑑賞して、あらゆる疑心が氷解した。芸術の審美において、わたしははなはだ厳しい観客であり、しかも常に先入観をもちつつあら捜しをする眼差しで公演を観る。でも、今回、わたしは完全に感動させられたと認めざるを得なかった。二回とも涙が流れた。この事実を隠すことはできない。なぜなら、たとえ他人を騙すことができても自分を騙すことはできないからである。

華々しい舞踊

神韻の魅力はまずその美にある。バックスクリーンは迫力壮大、衣装は秀麗典雅、音楽は天籟の如し、舞踊はまるで天女のようである。音響やライトはまさに行雲流水であり、その切り替えは自由自在である。この演出は水上に咲いた芙蓉であり、風にそよぐ玉樹であり、紗をすすぐ西施であり、漁舟の秀吟なのでる。こういった饗宴を満喫する際に、言語というものはこれほど無味乾燥であるかと、痛感させられる。

神韻の美しさはまず衣装の美。神韻の服装は色彩が鮮明で、その配色は自然でありながら優雅で、いずれも透き通ったものであり、低俗的な色は少しもない。これらの古代衣装は演目の需要に応じて色とりどりとなり、千変万化し、異なる演目には異なる衣装あり。その美麗さといえば、決して想像できるものであるまいが、かつて夢の中で見たことがあるようにも感じさせられる。

次は音楽。公演の音楽はトップレベルの指揮者と音楽家による共同制作の傑作である。神韻は西洋音楽の技法に中国古典音楽の真髄を融合させ、多くの芸術手段を駆使しているらしい。よって、その音楽はしみじみとなったり、憂憤激越となったり、柳をなでるそよ風のようになったり、穏やかで悠々となったりする。それは行雲流水のようであり、一張一弛で自由自在である。観客はそれを耳にすると、まるで春風に乗っており、天籟を聞いているが如しなのである。

神韻の演目はただ二ジャンルだけで、一つは舞踊で、いまひとつは歌である。舞踊は中国の古典宮廷舞踊を主にしている。ダンサーたちはほとんど海外で育った華人であり、その中には世界中国舞踊コンクールで表彰を受けた者が多数いる。歌はみな著名な歌手で、いずれもベルカントである。その声といったら、高くて雲をとどろかせつつ響き渡るもので、余韻が延々と続く絶唱といわざるを得ない。

意味深長の主旨

もし神韻の芸術美に驚かされたとすれば、わたしはその内容およびそれに込められている真諦により震撼させられたと言えよう。

神韻の主旨は、われわれの文明は更なる高い次元から来たものであり、その文明とは神伝文化である。この主題は全ての演目を貫いているが、しかし、それは説教を行うのではなく、芸術的な手法をもって解釈している。例えば、雄大な天上宮殿や、華々しい仙界や、美妙なる天籟や、奇異な草木などをもってわれわれ中華文明の源を描いているのである。

演目の中に、現代社会を表現するものもある。それはすべて舞踊を以って人々の信念や現実などを表現しているにもかかわらず、少しも単調と感じないし、音楽も演目のストーリー展開に十分に適応している。

たとえば、『ムーランの従軍』という演目。幕が開いたら、新緑や桃の花が咲いた長閑な山荘が目に映る。ムーランは花のような少女たちと刺繍をしている。音楽は緩やかで美しい。しかし、いったん戦場の一幕に切りかわったら、音楽はすぐ勇壮激越に変わり、バックスクリーンに映る高く聳える万里の長城および燃え上がる烽火なども瞬時に観客を硝煙立ち込める戦場に導く。その後、またも昔の静寂で長閑な故郷に戻り、歌舞に興じる人情が満ち溢れてくるのである。

わずか数分の間に、複雑なストーリーを微に入り細をうがって描写し、変化に富み波乱万丈でありながら雰囲気は一張一弛で秩序整然としている。しかも、場面の切り替えも行雲流水のように流暢であり、舞踊や音楽や衣装やライトおよびバックスクリーンの組み合わせは天衣無縫の境地に達しているのである。

『ムーランの従軍』の物語は幼いころから馴染んでいるものなので、舞踊などによって再び感動させられるとは考えられない。にもかかわらず、わたしは神韻が演じる『ムーランの従軍』の何かによって、やはり感動させられなおかつ感情的な共鳴が起こったのである。一人の女子として、親孝行を尽くさねばならないし、国のためにも尽忠せねばならないので、年取った親の代わりに戦場へ赴く。娘の自己犠牲の精神およびその切っても切れない愛情、そして父親の感情な葛藤など、これらはいずれも身体言語によって上手く表出されており、それらを観ていると思わず涙ぐんできた。

『李白の酒酔い』も同然。「李白酒一斗詩百篇」といったような芸術的な境地を、舞踊を以って表現できるなど、想像すらできなかった。幕が開いたら、目に映るのは大きくて白く光っている月、険しい岩石、痩せこけた黄色い花、そして独酌し酒に酔って山中で横たわっている李白。こういった光景だけでも、その美しさに驚愕させられるはずだ。さらに考えられなかったのは、一行の天女は月の宮殿から飛び出し、嫋々として降りてひらひらと舞ってくる。そして、なお酒に酔った詩人李白は入神の域に達した舞踊を披露し、その飄逸洒脱といえば、そよ風にそそぐ玉樹の如し。これはまさに、「この調べはまさに天上にのみあるもので、人間の分際ではめったに聞くことなどありはしない」ものだ。

こういった奇異なる光景を眺めていると、万物の霊長でありこの地球でもっとも貴い存在とされる人間、われわれの文明はもしサルなどから来ていたものだとすれば、それはわれわれの五千年の文明の歴史を自ら甚だしく汚すことになるのではあるまいか、われわれの良知、われわれの仁愛、われわれの慈悲、そしてわれわれの智恵はいったい何処から伝わってきたのか、などと考えざるを得なくなった。星空を仰いでいると、人間として何かの感慨がありうるのではあるまいか。

天地を感動させた悲しみ

神韻の演目の中には、中国における信仰者が迫害を受けている現実を描くものもある。しかし、はなはだ意外なのは、それに関わる演目が誇張的ではなく、迫害の悲惨さや恨みなどを意図的に表現せず、しかも反抗すらも表現しないということだ。『迫害を受ける中で、われわれは毅然と神への路を歩む』という演目があり、三人家族の修練者を描いたものである。煉功を行ったため警察に連行され暴力により亡くなった。それと同時に婦女は警察から侮辱されたりもする(この如き事は中国ではありふれたものでいたるところで起きている)。しかし、この演目の結末は暴力を以って暴力に返すのではなく、暴力を受けて亡くなった夫が信者に囲まれる中で天に昇り成仏することに至ったのである。『威厳と慈悲』の中でも、辱められ暴力を受けた信仰を持つ主人公は、暴力者に対し堅忍と慈悲を以って迫害者を感化し、彼らの良知を呼び戻そうとしたのである。

『希望の路を捧げよう』という歌にはこういった歌詞がある。「晴雨にもかかわらずチラシを配る我らは誰のためか。我らは誰のために風の中で食事し草を褥に寝るか。街頭に立っているのは大法弟子、彼らのチラシには慈悲と辛苦が染み込んでいるのだ」。

この歌を聴いていると、わたしは長く涙を流し、感慨でたまらなかった。わたしはつねにフラッシングの街を行き来し、その都度いつも白髪のお婆さんたちがチラシや大紀元の新聞を配るのを目にする。晴天雨天にかかわらず、一日十何時間もずっとそこに立ち続ける。考えてみれば、彼らはいったい誰のためなのであろうか。これまで、彼らのそばを通った際、わたしはいつもチラシを受け取り、またありがとうと言ったが、しかし内心ではこの老人たちはかなりしんどいから一枚貰わないとすまないと思っていた。すなわち、わたしは恰も彼らを憐れむかのような心情であった。しかし、この歌を聴いていると、わたしは慙愧の念でいっぱいである。

この歌は一つの真諦を伝えている。彼らは実は報いを求めるのではなく、しかも自分のためにするのではない。彼らはただ一つの真理、われわれにはまだ理解できない一つの真理、すなわちわれわれ衆生を救済するためなのである。彼らの包容さや境地を前にして、わたしは本当に汗顔の至り、そしてすっかり感動させられた。

この歌を聴き、彼らを見ていると、中国国内にいる法輪功学習者たちを思い出す。彼らは暴力や投獄を恐れず、死を冒してもチラシを配ったり陳情しに向かったりする。今は、わたしは彼らのことをもはや理解できた。彼らは自分のためではなく、私たちのためなのである。それにもかかわらず、わたしたちは同情心もなく彼らを見くびったり嘲笑ったりするし、そして中共が彼らに人権迫害を加えた際に緘口をしていた。それでは、こういった豊饒で純粋なる美の盛宴を享受する際に、われわれは慙愧の至りを感ぜずにはいられないのではあるまいか。

神韻はわれわれに芸術的享受を与えてくれるだけでなく、心をも洗浄してくれる。われわれが神様の子孫であり、更なる高い所から来ており、更なる良い帰結があることも教えてくれた。功名や利益や権力闘争などを捨て、そして執着心や競争欲望などを捨てたならば、われわれは、互いに騙しあう俗世を離れ、物によって喜ばず己によって悲しまぬという真新しい境地に入り、人と神が共存し調和する精神的な天国に入ることができるのであろう。

この意味では、神韻は実は神様からの恩恵である。神様は美の形式、真の情感、愛の慈悲をもってわれわれに帰るべき郷里を示してくれたのである。

2009年1月29日、ニューヨークにて。

(翻訳編集・小林)