著者の母(写真・著者提供)

≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(4)

この時、乗客の皆は船を降りて上陸する準備をしていましたが、母は私が見当たらないのに気が付くと、あわてて至る所を探しました。母が呼んでいるのを聞きつけて、私はすぐさまそっちのほうを見ました。すると、母は一番年下の三番目の弟「力」を背負い、父は左手に一番上の弟「一」を、右手に二番目の弟「輝」を引いていました。私は急いで母のそばへ駆け寄り、「ご免なさい、心配かけて…」と謝りました。母は私の頭を撫でながら、「もう勝手に歩き回ったらいけませんよ。大人の人と一緒でなければ…」と言いました。

 母があんなにも私に十分な気遣いと愛を寄せて諭してくれたことを、今でも忘れることができません。実は、あの時の私は、母の痛いほどの愛情に見守られ、あまりにも幸せだったため、憂いなど全くなく、元気よく、「はい、これからきっと気をつけます」と答えました。まだ子供だった私には、母のそのことばにどれほどの不安と気遣いが込められていたのか、知る由もありませんでした。

 私たち家族も他の乗客とともに上陸しました。母は私の手を引き、歩きながらこう言いました。「ここは朝鮮半島で、羅津市というところなの。羅津は大きな港で、いろいろな国の船が往来しているのよ」。この時、私は、私たちが乗っていた船が一番大きいことに気がつきました。その船のそばには、いろいろな形の船が数え切れないほど停泊しており、船上にはさまざまな旗がはためいていました。母はわざわざ、商品を輸送する貨物船を指差しながら、「旗のデザインで、どの国の船か分わるのよ」と教えてくれました。しかし、どのくらいの旗があるのか、どのくらいの国の船がここに止まっているのか、私には数え切れませんでした。

 私は母といっしょに歩きながら見回わしているうちに、いつの間にか広々とした道に出ました。そこでは、多くの人が往来していました。現地の朝鮮人は、いろいろな格好の服装をしていました。少し年配の男性は、白い上着に白いズボン姿で、日本の男性の「和服」とは少し違っていました。女性のほうは、上着はとても短いのですが、スカートはずいぶん長くて、足がほとんど隠れるほどで、色も非常にあでやかでした。これは日本女性の着物とかなり違っていました。特に彼女たちの履いていた靴は、とがった先が上に反っており、とても独特でした。

 そこで目にしたものすべてがそんなにも違っていたので、私はもう日本を離れ、本当に外国に来ているのだと実感しました。そこは、暫く留まるだけの港町にすぎなかったのですが。

 町中でも、飲食店でも、商店の中でも、肌の色や髪の毛の色が違う外国人をたくさん見かけました。各国の船員もいました。彼らは若くて、いろいろな格好のセーラー服を着ており、なし帽を被り、みんな格好良く、いきいきとしていました。

 そこで目にしたものは、東京では見たこともないものばかりでした。まるで夢を見ているようで、とても新鮮で面白いものでした。そのため、外国は決して、おばあちゃんたちが想像しているような恐ろしいところではないんだという印象を持ち、これから向かう未知の国に対しても、いくばくかの憧れを感じ始めていたのです。

 羅津港は、途中の停泊地にすぎませんでしたが、私たちが向かう中国は、聞くところによると、そこの数十倍も大きいということなので、きっともっと新鮮でもっと面白いかもしれないと思いました…。私は歩きながら、「もし園子姉さんがいっしょに来ていれば、よかったのに」と考えました。

(つづく)

関連記事
この結末を聞いて、私はとてもほっとしました。母は私に、「みんなが互いに助け合い、励まし合えば、どんな困難をも克服できる勇気と自信が生まれる。そうすれば、きっといい方法が見つかり、生きていけるはずだ」と教えてくれました。
私たちが中国へ旅立つ前、父は祖母の家へ行って、中国行きについて相談しました。祖母は、父が家族全員を連れて行くことに反対でした。父は祖母にとって一人息子で、その上祖父が早くに亡くなったため、祖母は随分苦労しながら一人で父を育てました。それなのに、今父は日本を遠く離れ、見知らぬ国へ行こうとしています。祖母はどうして安心できるでしょうか?
私たちが父と一緒に船に戻ったとき、母はもう弟の力を寝かしつけ、みんなの布団を敷いてくれていました。しかし、私はもう全く眠くありませんでした。おそらく、ここ数日間、荒波の船上で
私たちは、羅津市を離れてからは、暴風雨に遭うこともなく、好天に恵まれ、さらに2日間船旅が続きました。
第二章 裏切られた期待と開拓団での生活  私たちがバスから降りたとき、目に飛び込んできたのは、一面の荒れ果てた山と野原でした。3月の黒龍江省はまだとても寒く、地面もまだ凍っていました。大地は一面枯れた雑草に覆われ、山にも緑は全くなく、麓に新築のレンガの平屋が幾棟か並んでいるだけでした。
大人の人にとって「何とかして生きていく」ということが何を意味しているのか、8歳の私には分かりませんでしたが、私たちが中国の辺鄙な田舎に来ていることは確かでした。そして、「何とかして生きていく」という父の慰めのことばが、その後自分が一人で向き合わなければならない運命になるとは思いもしませんでした。
それからしばらく経って学校が始まり、私は毎日小道を通って山の麓にある学校に通うようになりました。 
私は次第にそこの生活に慣れました。入学して間もないある日のお昼、食事(昼ごはんは学校が先生と生徒のためにまとめて作ってくれる)が終わってグランドで縄跳び遊びをしていると、突然深緑色のトラックがやってきました。軍人のような若い人が何人か降りてきて、車から荷物を下ろし、総務室に運び始めました。多くの先生方も手伝っていました。
開拓団にきてから、自分がだいぶ成長し、多くの事を知るようになったと感じました。そして、両親がとても大変で辛抱していることも理解でき、心から母の手伝いをしたいと思い始めました。