【中国のことわざ】玩物喪志
【大紀元日本10月2日】【 Wán wù sang zhì 】玩物喪志(がんぶつそうし)。無用の物を愛玩して大切な志を失うこと。人を戒めるときに用いられる。
商代の紂王(ちゅうおう)は非道であり、広く宝物を探し、宮殿を改修し、楽しく騒ぐことを好んだ。紀元前1051年に、周の武王は兵を起こして商を滅ぼし、各部族の国家と関係を築いて、各国は周朝へ貢ぎ物をし、こういった状況は日に日に増していった。ある日、旅国の使者が武王に獒(ごう)という一頭の大きな犬を献上した。この犬は武王を見ると地に伏して、それがまるで君主への拝謁の仕方にそっくりだったので、武王はとても喜び、獒に心を奪われ政治が荒廃した。
召公は、武王を正気に戻らせて、商の紂王が滅亡したことの教訓を心に刻ませようとし、「旅獒」という文章を書いて「公明正大な王は徳を慎み、四方の少数民族はみな客となる」という主張をし、「徳」と「道」を関連させて「言葉や主張は外部からの影響を受けずにいて、全てのことの尺度はようやく規範に適合できる。他人を弄ぶことは、自らの徳行を損なうことであり、物に没頭することは、進取を失うこととなる。心の動きを志とし、志がまだ生じない時は道を規範とすべきであり、志の生じることを言葉として、言葉と志は相通じることができる」と説いた。
武王はこの文章を見て感動し、命令を下して各諸侯国の貢ぎ物を皆に分け与え、それからは精励してよく国を治めるようにし、周朝の世を盤石なものとした。
現在は中国でも日本でも公職にある人々の汚職の問題が注目されている。とりわけ2006年に摘発された上海市長の大規模な汚職事件は記憶に新しい。中国の経済成長を牽引する立場にある直轄市たる上海市の市長ともあれば、自然と大きな権力とそれに伴う様々な物が集まるであろうが、権力の大きい役職というのはそれだけ大きな責任を要する職務であるということは銘記しておかねばならないであろう。それにもかかわらず、自らの周りに集まってくる金や物に心を奪われ、政治が疎かになるようなことがあったら、それはまさしく「玩物喪志」といえるのではなかろうか。
出典:春秋・孔丘『尚書・旅獒』