【風雲人物伝】台湾の武勇「鄭成功」
【大紀元日本7月28日】鄭成功(1624-1662年)は、元の名を鄭森という。明の隆武帝は彼を賞賛してやまず、御営中軍都督に封じ、国姓の「朱」姓を賜った。しかし彼は恐れ多いと、名だけは成功と改め、後世の人たちは、「鄭成功」または「国姓爺」(国姓を賜った旦那)と称した。
成功の父親である鄭芝龍は、早くから海外と交易を重ね、時には海賊ともなったが、後に福建地方の富豪になったばかりでなく、福建総兵(福建地方の治安を守る職)の任にもついた。成功は、父親の軍事活動を見馴れていたため、幼少の頃より報国の志を抱くようになった。ある時、先生が彼に「灑掃(さいそう)・応対(おうたい)とはどういうことか?」と問うと、彼は「湯武の革命、これは灑掃(清掃、整理整頓)です。堯舜の禅譲、これは応対(挨拶、人との接し方)です」と答えた。先生は、彼の喩えが見事なのに驚き、将来きっと棟梁の逸材になると思って、彼に「大木」というニックネームを付けた。
文を棄て武に従う、明に忠し清に抗するを誓う
清軍による北京攻略に伴い、父親は清朝に投降し、母親は屈辱に耐え切れずに自殺した。この一連の出来事による打撃は、鄭成功にとって晴天の霹靂であった。母親を埋葬した後、彼は孔子廟に行き、平素身に着けている儒服と儒冠を脱いで焼き捨て、孔子に礼拝して言った。「私は一介の儒学生にしか過ぎませんが、国難に当たり、国がなければ、家などありえましょうか?私は、すでに文を棄て武に従う腹を固めました。清に反抗し、明を再興する大事業に尽力する所存です」。
孔子廟を離れた後、彼は志を同じくする友を集めて、明に忠し清に抗するを誓い、福建一帯で義勇軍を組織した。清にとって、彼は目の上のたんこぶとなったため、手を変え品を変え脅したり利で誘ったり、挙句に鄭芝龍を使って父親の情で投降させようとしたりしたが、彼は民族の大義のため頑として応じようとしなかった。
義勇軍の訓練完成後、彼は福建で挙兵し、泉州等の地を奪還し、南京を攻略しようと城外にまで迫ったが、清軍の大反抗に遭い、大敗し撤退した。
小さな株は倒れるが、大きな株は倒れない
鄭成功は、南京で大敗したものの、それにくじけることなく、台湾を攻略して、その地を反清復明の根拠地としようと画策した。彼は台湾上陸後、九ヶ月の戦闘の末に、38年間統治を続けたオランダ人を駆逐した。
台湾を占領後、彼は阿里山の万年杉について聞き及んだ。火に遭っても燃えにくく、水に遭っても腐りにくく、建築材料として耐久性に申し分ないものだという。彼は早速自ら阿里山に視察に出向くと、そこに見事な万年杉を三株見とめた。大きなものは、30人余が手を繋いでやっと囲めるものであり、小さなものでも20人余でやっと囲めるものであった。彼は、それを伐採しようと、斧を入れるのであるが、大きいため、一日に株の三分の一までしか斧がはいらない。そこで、翌日続きを切りに行くのだが、なんと昨日切ったところが塞がって元に戻っている。そんなことが何日も続いた。
鄭成功は奇怪に思い、山神を祭って啓示を仰いだ。ある晩、山神が夢枕に立ち、こう言った。「この万年杉三株は、神の樹だ。伐ることはできない。もし伐ろうとすれば、自らを傷つけてしまう。あなたは、国の忠臣なので、神の加護があって、無事でいられたのだ。もしどうしても万年杉を伐りたければ、まず祭壇を設けて杉を祭りなさい。その杉があなたの得るべきものであるなら、それは自ら倒れるであろう・・・」。
翌日、彼は山神の啓示どおり、祭壇を設け杉を祭った。すると「ゴー!」という地響きと伴に、くだんの20人前の小さな株が倒れた。しかし30人前の大きな株は2株とも、ビクともせずに聳え立っていた。これを見た鄭成功は思わず嘆息した。正に、「もしそれがあなたの得るべきものであるなら、それは自ら倒れる・・」という山神の啓示のとおり、一切はすでに決まっており、無理強いはできないのだということがわかった。「小さな株は倒れたが、大きな株は倒れなかった」のは、「台湾は攻略できるが、清を滅ぼし明を再興することはできない」という宿命の暗示だったのである。
鄭成功の台湾奪還により、明朝に一縷の望みを残しただけでなく、西洋による植民地支配が頓挫した。後世の人は彼に感銘を受けて祭廟を建て、彼が延平郡王に封じられたのにちなんで、「延平郡王祠」と名付けた。日本の統治時代には、彼はさらに神格化され、「開山神社」と名前を改められたことから、後の台湾人は彼を「開台聖王」または「開山王」と称するようになった。