中国の色彩文化
【大紀元日本5月31日】中国文化の中では、色彩と工芸、美術、詩歌、風俗の間には密接にして不可分の関係がある。
都市建設、壁画と絵画の面においても、色彩の運用は多様であった。明朝以降の古都北京においては、皇族だけが赤い塀と黄色い瓦葺きの建物に住むことができ、一般庶民の建物は、青煉瓦と青瓦しか使えなかった。また、梁や柱への彫刻と絵画も、色彩の使い方は豊かであった。民間の建築については、多くが黒瓦と白い壁が使われた。
今から1500年余り前の敦厚石窟には、貴重な壁画が1万点あまり遺されているが、時期によってその色使いが異なる。北魏には、赤褐色を基調として、藍、黒を配していた。唐朝の時期には、黄色が加わり、色使いも多種多様になり、艶やかで華やかなものとなった。宋朝に至っては、藍緑の色調が主となった。
中国画では、主に墨の濃淡で奥深さを表現した。「墨で五色を描き分け」、「丹青(カラー)を用いず、彩りが人を照らす」もので、濃淡の中に超然とした芸術的境地を実現した。「墨で五色を描き分ける」とは即ち、「焦」「濃」「灰」「淡」「清」である。画家の眼には、四季の水の色ははっきりと異なっている。郭熙の『林泉高致』によると、「水の色、春は緑、夏は碧、秋は青、冬は黒」であった。中国画にカラーを使った美がないわけではなく、『唐朝名画録』中に記載された李思訓の青緑にカラーを重ねた山水画は、かつて玄宗皇帝から「国朝山水第一」と称せられた。この種の宮廷画の色彩には、扁青、石緑、石黄、朱砂、紅、鉛粉、金泥などが使用され、色彩は絢爛艶やかであった。中国人は、大自然中の大量の鉱物と植物を上手く利用し、その中から顔料を練り上げたため、中国画の中の色彩明度と飽和度はいっそう系統立ち豊かなものとなった。
中国の詩と画は、互いに一脈相通じている。「詩の中に画があり、画の中に詩がある」と言われるように、詩歌の中にも色彩が生き生きと取り入れられ、多くの詩人が色彩を用いて描写する名手であった。色彩によって絶妙な情趣を表すことで有名な詩人・崔護は、『題都城南庄』の中で、「去年の今日、この門のなかで見た美しい娘の顔は、満開の桃花に映じて紅に染まっていた」と謡い揚げ、古今を通じて絶唱される詩歌となった。白居易の『暮江吟』では、「一筋の夕陽が、水の中に射し込んできて、川の半ばまではさびしげな色で、残りの半分は赤く紅(くれない)である」と謡い、色彩の美によって人々に謡い継がれている。李賀の「雁門太守行」は、まるで詩歌の中の交響曲だ。「黒雲(こくうん)は城を圧して 城は摧(くだ)けんと欲し、甲光は月に向かいて金鱗(きんりん)開く。角声(かくせい)は天に満つ 秋色の裏(うち)。塞上(さいじょう)の燕脂(えんじ)は夜紫(やし)を凝らす。半ば巻ける紅旗(こうき)は易水(えきすい)に臨み、霜は重く鼓声は寒くして起こらず、君の黄金台上の意に報いんとして、王竜を提攜(ていけい)して 君が為に死せん」(『李賀詩選』黒川洋一編、岩波文庫から)。こういった詩人と詩句は、中国文化史上枚挙にいとまがない。
中国の陶磁器や漆器には、よりいっそう色彩の装飾が欠かせない。上薬を使った各種色彩の発明によって、器は光沢と豊潤さを増した。有名な唐三彩から五彩まで、青磁から白磁まで、青花から彩釉まで、色彩の功は尽きることがなく、彩陶と黒陶は、中国古代製陶工芸の最高峰だ。中国の漆器、紡績品もまた図案が精美で、色彩が艶やかだ。戦国時代の漆器装飾は、空前の水準に達した。斉の国には「色艶やかな織物」が多数あり、古墳から出土した絹織物には、褐、赤、黒、紫、黄などの色が染め抜かれている。
伝統的な風俗の中では、色彩文化はさらに濃厚だ。黄色は帝王の色であり、皇宮、神宮、仏閣等の主要建築では黄色が多用された。黄色はまた、世俗を超越した色とみなされ、仏教が崇拝する色であり、和尚の法衣も仏閣霊廟も黄色であった。赤色はまた、中国人が好む色彩の一つだ。毎年の旧正月、喜慶吉日や親族友人が相参集する場合に、赤色は欠かせない。紫色は吉祥で厳かな色で、民間にも、「梁に紫燕を画けば、泥を咥えて来ては、また飛び去っていく」とある。白色は、凶事、喪に服する色だ。中国人は凶事に遇うと白い服を着る。白い上着、白いズボン、白い冠など、現在と同じだ。
しかし、近代に至り、特に中共が政権を執ってからは、赤色が広範囲に使用されるようになり、赤色には「危険」「血生臭い」「暴力」「弾圧」などの意味も加えられた。