伝統芸能が根ざすもの--華人新年祝賀祭日本公演に寄せて
【大紀元日本3月14日】全世界華人新年祝賀祭の尼崎公演を取材していた際、休憩時間のロビーの雑踏の中でふと、「雑技がないのが残念」という言葉を耳にした。中国の雑技団はアクロバティックな動きや信じられないほどの身体のしなやかさで演技を見せることで有名で、市内観光つきの中国ツアーには必ずと言ってよいぐらい、立派な建物の劇場で催される雑技団の演技の鑑賞が旅程に入っているし、逆に雑技団の日本公演も毎年数多く開催されるほど、人気がある。雑技それ自身は確かにすごいものではあるが、さて、それは果たして素晴らしいものなのだろうか。
舞踊、絵画、音楽など、芸能の種類は多岐にわたるが、洋の東西を問わず、伝統芸能は社会、信仰、感情など、人間の生活の営みに端を発している。生活からかけ離れたものについて人は理解できないし、ましてや共感など起こりえない。かつての芸術が宗教と深く関わっていたのは、当時の人々の信仰が導き出した帰結である。つまり、芸能と生活とは切り離せないものなのである。
この視点から雑技を考える。雑技には様々なものがあるが、その中には幼少のときから身体を酷使して他人がまねできない動作ができる身体を作り上げ、日常生活において自らの感情を表現する手段としては決して行うことのない動作を行うものがある。そのような芸能はおよそ人間の生活からはかけ離れたものであり、たとえ受け継ぐ者がいたとしても、決して伝統芸能の主流とはなり得ない。しかし残念なことに現在では、舞台で行われる中国の芸能はと問えば雑技という答えが多く返ってくるほど、雑技が有名になってしまい、広大な中国の各地にある、もっと生活に根ざした芸能が埋もれてしまっている感がある。全世界華人新年祝賀祭が4年前から世界中で開催されているのは、その埋もれてしまった、人々の生活に根ざした芸能を世界中に紹介するという点でも意義があると思う。
蛇足かもしれないが、約2年前の本紙の記事「農村の子供たちを助けて!百人の博士が温家宝に上書」(*) に、小さな女の子が安徽省合肥市の繁華街の路上で雨の中、生活費を得るために雑技をしている光景が収められている。もし雑技が誕生した背景に貧困があるのなら、その芸能はあまりにも悲しいものではないだろうか。
(*)記事のURLは http://jp.epochtimes.com/jp/2005/03/html/d28351.html