北京街頭で物乞いする人々
【大紀元日本9月27日】2005年の夏休みに、久しぶりに北京に戻ることができた。数年前までの北京と比べてみると、その変貌ぶりには驚いた。林立する新築ビル、環境の改善の成果だと思われる久しぶりの青空、広い道路を行き来する自動車の流れ、まさに大都会という表現にふさわしい活気の溢れるこの新しい都市は、昔とは随分変わったなと、記憶がそう教えてくれた。
しかし町中歩くと、昔とは何も変わっていないものに気づいた。古い北京駅、人のよく通る商店街、観光スポット、ひいては地下鉄の中でさえ、北京を旅行したことのある人なら少なくとも必ず一回は目にする情景があった。それは、街角で乞食する人々の姿であった。汚い服、いや、夏になると裸の上半身が泥まみれになって人がよく通る通りの脇で、ひざまずいて、「一分(貨幣の単位、一元の百分の一)でもいいから私にください」と体で求めているようなポーズで話しかけられる。乞食をする人の前にはたいてい缶ジュースよりちょっと大きな昔風の鉄製の弁当箱が置かれている。私が北京で目にしたのは、身体障害者、学費を求める幼い子供、二胡を弾く老人、上半身の火傷を通行人に晒す女性、そしてここまで落ちた理由が長々と書かれている紙を自分の前に敷いて泣き喚く親子などがいた。初めてでなくても、この情景を目にする人なら誰でも助けてあげたい気持ちになるのは当然だろう。しかし金を渡そうとして財布を取り出した私の手を、隣にいた友人はすぐに止めた。「これは、一つの職業なんだ。こいつらは実は俺ら以上にかせいているのかもしれないよ。グループで行動しているやつらもいるし、実際テレビでは、ある乞食の一日をカメラで追跡してその全貌を撮って放送したことがある。なんと、その乞食は昼間になるとわざと汚い服に着替えて金をもらうが、夜になると高そうな服装に着替えてレストランに入ったり、高級ホテルでとまったりしているんだぞ。そんなやつらに金をやるな」と厳しい表情で友人はそう言い出した。
友人の話を聞いて、財布をかばんに戻そうとしたが、一瞬私の前で乞食をする少女の苦しそうな表情が見えた。芝居にしてはあまりにもリアルを感じさせる。続いて、ある種の複雑な気持ちが私を襲った。自分よりも多く稼いでいるかもしれない人に金をやるべきか、それとも本当に食べ物がなく苦しんでいる、あるいは母の医療費のために自分の尊厳まで捨てた親孝行な娘の求めを拒むのか、それは本当に大学受験以上に難しい問題に感じた。