【ニュースレターが届かない場合】無料会員の方でニュースレターが届いていないというケースが一部で発生しております。
届いていない方は、ニュースレター配信の再登録を致しますので、お手数ですがこちらのリンクからご連絡ください。

シェラトンホテルの女性後継人が語る、家族企業成功の秘訣

ミッツィ・パーデューさんは、280年以上にわたるアメリカンドリームの象徴です。彼女の父親はビジネス界の巨人であり、シェラトンホテルチェーンの創業者であるアーネスト・ヘンダーソン氏です。一方で、亡き夫のフランク・パーデュー氏は、パーデュー・ファームズを築き上げた大実業家でした。ヘンダーソン不動産会社は1840年に設立され、パーデュー・ファームズは1920年に創業されました。ミッツィさん自身もまたビジネス界で活躍する女性であり、自身のワイン用ブドウ会社「セレス・ファームズ」を設立して、カリフォルニア最大級のワイナリーにブドウを提供しています。

ミッツィ・パーデューさんは、自らのワイン用ブドウ会社を所有し、カリフォルニアの大手ワイナリーにブドウを提供しています。(ミッツィ・パーデュー提供)

 

ミッツィさんの人生のほとんどの時間、彼女の周りには世界で最も成功した起業家たちがいましたが、彼女自身は質素でありながらも魅力的な人物です。ミッツィさんは、自らの謙虚な性格を両親の影響によるものだと語っています。

両親は彼女の人格形成において極めて重要な役割を果たしました。子ども時代について語るとき、ミッツィさんは深い愛情をこめてこう振り返ります。両親は、物質的な豊かさよりも人間性を大切にする家庭を築きたいと願っていました。倹約はかつても今もなお、ヘンダーソン家の大切な価値観です。「両親は私たちが甘やかされないように本当に努力してくれました」と彼女は言います。「両親は、私たちが富の泡の中で育つことを望まなかったのです。私はそのことを永遠に大切にしています」

第二次世界大戦の勃発時、ヘンダーソン夫妻は、子どもたちに勤勉さ・自尊心・団結を重んじる生活を体験させたいと考え、マサチューセッツ州ボストンから約30マイル離れたリンカーンという田園地帯の農場へ移り住みました。それはこれまでの社交的な暮らしとはまったく異なるものでしたが、ミッツィさんはそこで多くのかけがえのない思い出をつくりました。

農場での生活は質素でしたが、決して楽ではありませんでした。学校が休みの日には、ミッツィさんと4人の兄弟姉妹が日々の雑務を担当し、牛や豚、アヒルの世話をしたり、厩舎を掃除したりしていました。

ヘンダーソン夫妻は、子どもたちが幅広い価値観を身につけられるようにと、公立と私立の両方の学校に通わせました。そのため、ミッツィさんの友人には、上流社会の少女もいれば、酪農家の娘もいました。彼女は「二つの世界を行き来できたことが、最も有意義な成長の仕方でした」と語ります。

ミッツィさんの父アーネスト・ヘンダーソン氏の家族写真。彼はハーバード大学のルームメイトとともにシェラトンホテルチェーンを設立しました。(ミッツィ・パーデュー提供)

 

ミッツィさんは十代になるまで、兄弟姉妹のお下がりの服を着ていました。彼女は誇らしげに言います。「ブランド物の服を買って自分の価値を示すなんて、そんなことはできません。両親は、奉仕を通して自分の存在意義を築くことの大切さを教えてくれました。『最高の人生とは、たくさんのお金を持つことではなく、たくさんの価値を持つことだ』と」

間違いなく、彼女の人生に最も大きな影響を与えたのは父親でした。非凡な価値観を教えただけでなく、アーネスト氏は卓越した先見の明を持つビジネスの先駆者でもありました。彼が亡くなったとき、名義のホテルは400軒にものぼりました。莫大な家族資産があったにもかかわらず、ミッツィさんはこう振り返ります。「私が何か欲しいと言うと、父はいつも『自分で稼ぎなさい』と言っていました」

1930年代、不動産業界が大不況に見舞われ、ホテルの倒産が日常茶飯事だったころ、アーネスト氏は多くの倒産寸前の物件を買収し、それらを成功へと導きました。買収後、彼が最初に行うのは、ホテルの宴会場に全従業員を集めることでした。従業員たちは新しい経営者のもとで職を失うのではと不安を抱えていました。「父が最初に言う言葉はいつも、『皆さん全員、仕事を続けられます。私はあなた方を信じています』でした」とミッツィさんは語ります。

アーネスト氏が従業員をどれほど大切にしていたかを示す証拠として、ホテルで最初に改装されたのは、いつも従業員食堂やロッカールームなど、一般客の目に触れない場所だったといいます。「父は常に、『リーダーの役目とは、人々が自分自身をより深く理解できるように導くことだ』と考えていました」

ミッツィさんは、ある土曜日の午後、父の言葉と行動が「自分の心を深く打った」ことを今でも鮮明に覚えています。その日、10歳にも満たない彼女が父の書斎に入ると、父は帳簿や書類に集中していました。そんな晴れた朝、他の友人たちはゴルフを楽しんでいる時間でした。ミッツィさんが「何をしているの?」と尋ねると、父は「慈善寄付の申請を審査しているんだ」と答えました。「お金を持つことで一番の喜びは、それを寄付できることなんだよ」と父は言いました。

ヘンダーソン家は慈善活動に熱心であると同時に、家庭の品格を非常に重んじていました。ミッツィさんは「私たちは決して家族の恥を公にしませんでした」と語ります。ヘンダーソン家は19世紀から広く知られていましたが、家庭内の争いやゴシップが外に漏れたことはほとんどありません。その理由を問われたミッツィさんはこう答えました。「両親が教えてくれた価値観の一つに、『嫉妬は人間関係に何の役にも立たない』というものがありました。誰かがうまくいったら、嫉妬するのではなく喜んであげなさい、と。誰かが成功すれば、私たち全員にとっての利益になるのです」

ミッツィ・パーデューさんと故フランク・パーデュー氏(ミッツィ・パーデュー提供)

 

1988年、ミッツィさんはワシントンD.C.のパーティーに出席し、その日を境に人生が大きく変わりました。その日、パーデュー・ファームズの社長だったフランク・パーデュー氏は遅れて到着し、ミッツィさんは早めに会場に着いていました。二人の予定が重なったのはわずか10分。しかし、その10分が20年以上続く愛の物語の始まりとなりました。

当時、ミッツィさんはカリフォルニアに、フランク氏はメリーランドに住んでいました。二人は一目で惹かれ合い、心を通わせました。どちらも過去の恋愛で信頼を傷つけられた経験を持っていました。

会話の途中で、フランク氏の表情が変わりました。彼はミッツィさんの顔をじっと見つめ、こう言いました。「あなたを信頼できると思います」「私も彼を見上げて言いました。『私もあなたを信頼できると思います』と」とミッツィさんは振り返ります。

その後の4分間、二人は将来の結婚生活について語り合いました。そしてその後の数十年にわたる結婚生活は、ミッツィさんの人生で最も甘く幸せな時間となりました。

現在、ミッツィさんの使命は、ヘンダーソン家とパーデュー家の価値観を次世代に伝えることです。彼女は父や夫、友人たちから学んだ教訓をもとに、いくつかの著書を執筆しています。かつては人前で話すことが怖かった彼女も、今では世界各地で講演を行う実力派スピーカーとして活躍しています。

もし空港でミッツィさんを見かけても、彼女が大富豪の後継人だとは思わないかもしれません。ミッツィさんはこう言います。「国際線に乗るとき、私はエコノミークラスに座っています。頭等席へのアップグレードに数千ドル払うくらいなら、そのお金を慈善団体に寄付したいのです」

(翻訳編集 解問)