盆地に沿ってゆるやかに曲がる美しい日陰の通りには、活気あふれるボデガ(酒蔵)やレストランが立ち並んでいます。この涼しい通りでは、岩がまるで魔法のように柔らかくなり、白い壁に挟まれるようにして迫り出しており、スペイン人も旅行者も、8月の広々とした涼しい影の中でゆったりと過ごしています。
この不思議な岩には、見た目以上の秘密が隠されています。一枚岩の崖が通りの上に垂れ下がり、店を押しつぶすように見えるため、店が岩の間に建てられたのか、岩が店の周りにできたのか、一見して判断するのは難しいです。これらの疑問は、探求心をかき立てます。しかし、この賑やかで涼しい通りを目にすれば、12世紀のムーア人がこの驚異的な場所で何世紀にもわたって抵抗を続けた理由がよくわかるでしょう。
この広大な影を作り出しているのは、燃えるようなアンダルシアの太陽です。現在「セテニル・デ・ラス・ボデガス」と呼ばれるこの町(人口3千人)に最初に住み着いた洞窟住人たちは、南スペインのシエラの谷にある自然の岩の曲線が、既に壁や天井としてだけでなく、日陰と一定の温度をもたらすことに気づきました。岩の熱慣性のおかげで、夏は涼しく、冬は暖かく保たれます。彼らは、厳しい日差しを避け、この涼しい場所を見つけて住み着いたのです。
現在では、この通りは観光客にとっての目玉であり、ブロガーにとっても夢のスポットとなっています。しかし、町の狭い通りは特に駐車場探しに苦労するため、車で訪れる人々には一工夫が求められます。それでも、この町は一晩滞在する価値のある場所で、世界中から旅行者がこのアンダルシアの白く塗られた洞窟を見るために訪れます。周囲の丘に点在する白い町々の中でも、特に有名な場所です。
この賑やかな日陰の通りは「カジェ・クエバス・デル・ソル」(太陽の洞窟通り)と呼ばれ、その観光的魅力に見合った興味深い歴史を持っています。町の名前「セテニル・デ・ラス・ボデガス」は、この日陰の通りが果たしていた役割を示唆しています。この名前は「7度の敗北」とも訳され、侵略者が町を征服しようとして7度も失敗したことを表しています。
この町は戦略的に重要な位置にあり、12世紀にはアルモハド朝のムーア人によって支配されていました。1407年には北からカトリック勢力がこの町を最初に包囲しましたが、その試みは失敗に終わりました。その後も6回の攻撃が続きましたが、ついに1484年、火薬と大砲が用いられたことでムーア人は追放されました。この「太陽の洞窟」と呼ばれる通りは、暑いアンダルシアの気候の中で生産物を涼しく保つために利用されていた可能性があり、それが町の防衛に役立ったと考えられます。
セテニルは、イベリア半島における最後のムスリムの拠点の一つであり、ここセテニルでは、ムーア人の防衛の最後の痕跡の一部を今日でも訪れることができます。ナザリ城の遺跡は、今でも崖の上に残っていますが、かつての姿とはかけ離れています。この城はかつて、カトリックのレコンキスタ(再征服運動)に対抗して40の塔を誇っていましたが、今では崩れた石がわずかに残るのみです。
アンダルシアでは古くから農業が伝統となっています。カトリック勢力がこの地域を奪還した後、彼らはワイン用のブドウやアーモンド、オリーブの木を導入しました。町の名前「セテニル・デ・ラス・ボデガス」のもう一つの意味は、ワインがこの地域の産物であることを示唆しています。しかし、繁栄していたワイナリー(ボデガ)は、1860年代に発生したフィロキセラ虫の大発生により壊滅してしまいました。それでも、オリーブの栽培は今日まで続いています。
この町の洞窟住居に加え、もう一つの特徴は、南スペインの町々でよく見られる白い壁です。ムーア人は、消石灰を原料とする「カル」と呼ばれる白い塗料で村の壁を白く塗り、太陽光を反射させることで、アンダルシアの厳しい夏の暑さを和らげる工夫を残しました。
また、伝染病の流行とも関係があると言われています。16世紀から19世紀にかけて、コレラや黄熱病が南スペインを襲った際、家々に「カル」が塗られたのは、その後だったと言われています。
現在、この美しい日陰の通りは、まさに活気に満ちています。地元の人々と外国人が「カジェ・クエバス・デル・ソル」沿いのボデガやレストランで交流し、雨や日差しを避けながら楽しく過ごしています。地元の伝統では、椅子を通りに持ち出し、涼しい日陰で隣人や友人、旅人と楽しい会話を交わすのが習慣です。
(翻訳編集 華山律)
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