楊氏の女将軍、鉄甲騎兵を撃破す(4)敵を誘い込んだ女兵、ついに大勝利
宋軍が守りを固める淤口関(おこうかん)を前にしながら、遼軍の韓昌がなおも追撃を命じたのは、女将軍・楊延琪が率いる若い女兵たちがそこへ逃げていったからです。韓昌が大声で叫びます。「追え。前方にあるのが龍の池でも虎の穴でも構わぬ。あの女兵たちを、何としても生け捕りにするのだ」。
そこで、韓昌率いる遼軍の鉄甲騎兵が追っていくと、そこは両側から迫られた細い道でした。道の左右は泥の湿地です。しかも朝の濃霧が立ち込めていて、非常に視界が悪い状態でした。
女兵たちは軽装で従軍していたので、その動きは身軽で速く、すぐに姿を消してしまいました。いっぽう、韓昌の鉄甲騎兵は、平原での戦いには強いものの、ひとたび沼地へ入ってしまえば鎧が重いばかりで全く動きがとれなかったのです。韓昌はすぐに、自軍の鉄甲騎兵が人馬ともども沼地のなかにあって、前進も後退もできなくなっていることに気づきました。
関連記事
共産党が国民を絶え間ない「政治運動」に駆り立てるのは、中華伝統文明を徹底的に壊滅させるためであり、道徳が崩壊の危機に瀕したときに人が救われる一切の可能性を断絶するためである。世の人が伝統文化とそれに裏付けられた道徳規範を失ったとき、人は神および神が伝える法を理解できず、救い済度される最後の機縁を失うこととなる。
古来より、軍隊の食糧事情は前線で戦う兵士にとって一大事でした。食事の質と量は兵士の身体能力に直接的な影響を及ぼし、作戦の勝敗をも左右することがありました。では、古代中国の兵士は何を食べていたのでしょうか。
座り方は礼儀作法の一つでもあり、古代の中国では、座る姿勢に非常にこだわっていました。古代では、座り方は主に三種類があり、「結跏趺坐(けっかふざ)」、「箕坐 (きざ) 」、「跽(き)」です。
「宋の史」で有名な北宋の反遼将軍である楊延昭は、20年以上にわたって国境を守っており、遼人(キタン人)は彼を非常に恐れていました。遼人は六郎星座(将軍星座)を宿敵と信じており、楊延昭の知恵と勇敢さ、戦闘力はまるで六郎星座の星が地上に降りて生まれ変わったようで、彼を「楊六郎」と呼びました。