韓信――兵仙(5)韓信は密に陳倉を渡り、漢王朝が天下を征服するための第一歩【千古英雄伝】
(続き)
紀元前206年6月、漢中で盛大な任命式が行われ、漢軍陣営の長期にわたる空席となっていた将軍の候補者がついに確定しました。思慮深い韓信は劉邦の関中への行進をし、天下を制覇するための国士となりました。韓信の計画では、劉邦の軍の最初の標的は三秦地区でした。
漢軍が最初に決めなければならないことは、軍隊を進行するタイミングでした。漢中を離れることがなかった韓信は、常に天下の動きと情勢の変化に注意を払っていました。項羽が領土を分割したとき、不当な分割が原因で、1年の内に反乱が発生していました。まず、齊の長の田栄が自ら王となり、齊の内戦が勃発すると、続いて魏の彭越と趙の地区の陳餘が応戦し、項羽の覇権を揺るがしました。項羽はすぐに田栄を攻撃し、劉邦に注意を向ける時間がなかったので、漢軍に進軍反撃の絶好の機会を与えてしまいました。
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韓信(紀元前約231-196年)は中国史で最も傑出した軍事家に数えられます。劉邦が400年続いた漢朝の基礎を築く際、補佐役を務めたことで知られていますが、韓信の少年時代の逸話が、忍耐強さへの教訓として最もよく物語られています。
長い歴史において名を残した人物が、幼少の頃は貧しかったり、虐められたりして苦を嘗めたという逸話がたくさん残っています。彼らはこれらの苦労があったからこそ鍛えられ、偉大な事を成し遂げられたのかもしれません。今回は、韓信という人物の物語を紹介します。
戦国時代の末期、割拠していた諸侯国に取って代わり、秦の始皇帝は天下統一を果たしました。しかし、始皇帝は在位三十七年、巡行中に沙丘(訳注:現在の河北省邢台市広宗県)で急逝しました