韓信(大紀元)

韓信――兵仙(2)知らせていない才能・韓信が漢に戻る【千古英雄伝】

(続き)

秦の末期、「楚は三軒しかいなくても、秦を亡ぼし、楚を勝利に導く」という諺が流行っていました。紀元前209年、陳勝は反乱を起こし、「張楚」政権を樹立し、世の中の英雄を集結させ、項羽と劉邦も楚人の子孫として立ち上がりました。比較的平和な淮陰県で、韓信は彼の宝剣のように鞘から抜くのに最適な時期を待っていました。

この秦王朝との戦いの中では、韓信は自らの才能と戦略だけが頼りでした。彼は個人の名利を追い求めないで、国を守りました。そのため一人の本当の国を導く王を選び天下を統一し、平和な世の中を実現しようと考えていました。

韓信はまず項氏の兵士と馬に目をつけました。項梁は楚国の名将・項燕の息子で、名声も高く、彼と彼の甥の項羽は、八千人の江東(今の長江南東地区)の兵士たちを率いて秦と戦うために、さまざまな才能の人材を集めました。軍隊規模はすぐに六万から七万人にまで拡大し、中には各反乱軍の重要な指導者となる者までいました。彼らが淮陰県を通過したとき、剣を持った一人の青年が彼らの軍に入ってきました。彼は無名の兵士のように見えますが、実は彼こそさまざまな戦争で、実践的な経験を積んで無敵の戦争の神である韓信だったのです。

▶ 続きを読む
関連記事
韓信(紀元前約231-196年)は中国史で最も傑出した軍事家に数えられます。劉邦が400年続いた漢朝の基礎を築く際、補佐役を務めたことで知られていますが、韓信の少年時代の逸話が、忍耐強さへの教訓として最もよく物語られています。
長い歴史において名を残した人物が、幼少の頃は貧しかったり、虐められたりして苦を嘗めたという逸話がたくさん残っています。彼らはこれらの苦労があったからこそ鍛えられ、偉大な事を成し遂げられたのかもしれません。今回は、韓信という人物の物語を紹介します。
戦国時代の末期、割拠していた諸侯国に取って代わり、秦の始皇帝は天下統一を果たしました。しかし、始皇帝は在位三十七年、巡行中に沙丘(訳注:現在の河北省邢台市広宗県)で急逝しました
一時の我慢で波が静まり、一歩引き下がれば世界が広々と開ける 「小さな不寛容は大きな混乱をもたらす」「忍は高く、 […]