絵の中の時空ーー美術家=物理学者?(十一)
「最後の審判」は天国に昇るか、地獄に落ちるか、全ての衆生にとって、恐ろしくて緊張感に満ちた最終の時です。人々は、審判が自分の過去の善悪行為によって下されることを知っています。善には善の報いがあり、悪には悪の報いがあります。悪を行わない限り悪の報いもありませんので、未来を心配する必要はありません。
しかし、現代科学が浸透している環境下で、多くの人は金銭や権利、利益、欲望を追求しており、佛、道、神は古人の「愚かな想像」だと思い、神聖な正しい信仰は「封建的な迷信」だとして蔑んでいます。今日の中国では、自分自身の道徳基準を努力して向上させようとする修煉者のことを、精神が錯乱していると見なして嘲笑しています。最悪の場合は、迫害の対象になり、残酷な生体臓器狩りの対象となり殺害されてしまうことさえあります。
人類の文化には、昔から自分の信仰する神様の名前を念じる習慣があります。そもそも神様の名前を念じることは神様への尊敬のためであり、修煉で必要となることもあります。このことは次第に多くの人に受け入れられ、知らず知らずのうちに習慣となりました。例えば、中国で佛を信仰している人が、誰かがすごいことを成し遂げたのを見ると、「我佛慈悲,善哉善哉!(わが佛は慈悲深く、ぜんざいぜんざい)」と念じ、道家の修煉者なら「福生无量天尊!(福生無量天尊)」を念じ、キリスト教を信じる人なら、「oh,my god!」と念じます。
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「最後の審判」の壁画は、雲の上に立っているイエス・キリストを中心に描かれています。キリストは若く、容姿端麗で力強く右の手を上げ、大公無私で優れた正義感を以って判決を下します。善人を天国に導き福報が得られるようにします。左の掌で、邪悪を阻止し、罪人を地獄に沈めるように下へ押さえています。悪人には悪の報いがあります。キリストの掲げた右手は、この世のすべてのものを一瞬にして最終的な判決を下し、すべてに決着をつけるかのようです。 この荘厳な建造物には、無限の慈悲と威厳が顕わされおり、人々は神の偉大さと
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