中国伝統文化と日本(二)

華やかな唐(618~907)の前に、隋(581~618)という短いながらも興味深い時代があった。隋の氏姓は楊である。その祖は、後漢の政治家・楊震(ようしん、54~124)に当たるという。確証は、ない。ただし、隋を創立した楊堅(ようけん、541~604)がそのように称していたので、楊震を模範とすることが隋の国是になった。(ただし、実行できたのは楊堅の治世のみであるが)

楊震は政治家として有能であっただけでなく、人品すぐれ、学問を尊び、忠義にあつく、賄賂も受け取らないという、あまりにも理想的な人物であった。それゆえ敵も多かったのであろう。讒言を信じた安帝によって職務から遠ざけられた楊震は、無念のあまり、服毒自決を遂げる。

それから約500年の後、隋の楊堅(文帝)は、楊震の理想を具現するかのように、国家創立と内政改革の大事業を一代で成し遂げる。その意味で、楊堅は十分に名君であったといっていい。

ただし偉大な父に反して、その次代は中国史に名を残す暗愚な暴君であった。名を煬帝(ようだい、569~618)という。父の存命中は質素倹約に努めていた煬帝だが、父帝の死後、自身が即位すると豹変し、恐るべき正体を見せる。

その煬帝を激怒させたのが、607年、小野妹子を大使とする遣隋使が持参した日本からの国書であった。

「日出ずる処の天子」

記録としては、日本側の『日本書紀』にその記載はなく、中国側の『隋書』にあるのみである。

「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す。つつがなきや」

隋からみれば格下の東夷の島国である日本が、あろうことか対等の口ぶりで国交樹立を申し入れてきた(第2回遣隋使)。

これに煬帝が怒らないはずはないが、このあたりの歴史は、日本側から先に見たほうがよい。

推古帝の摂政となった聖徳太子(574~622)は国政に携わる要職に就いていたが、政治の実権は、蘇我馬子をはじめとする蘇我氏に握られていた。そこで聖徳太子は、対外的に朝鮮半島の百済に力を入れていた蘇我氏に対抗して、朝鮮半島の背後にある隋と直接国交を結ぶことにより、蘇我氏よりも優位に立とうとしたのである。

そこで先ほどの煬帝を怒らせた国書に話を戻すのだが、聖徳太子は、どうも煬帝の反応を見越した上で、このような国書を送ったらしいのだ。

当時、隋は北方の騎馬民族である高句麗討伐に手を焼いていた。結局、日本と対峙しないほうがよい、ということになり、怒った煬帝が日本討伐の遠征軍を出すことはなかった。

聖徳太子は、東アジアの国際情勢をそこまで読みきって、この度の遣隋使を出した。だとすれば、聖徳太子の外交手腕は、現代的観点からしても驚くべきものがある。

もちろん、隋に敵対することが聖徳太子の本意ではない。そのことは、国家制度や仏教文化をはじめ、多くの先進文化を中国大陸から輸入した彼の業績をみれば明らかであろう。  

ゆるやかに進む歴史

大まかな印象だが、歴史が急速に進むのは、およそ19世紀以後からのことらしい。それまでの人類の歴史は、現代人が想像できないほどゆるやかに、動きの見えない大河のように進んでいた。

先述した蘇我氏の打倒も、実際に達成されるのは約40年後の大化の改新に至ってからである。ただし歴史は、確実に連続していた。小野妹子の第2回遣隋使に随行した留学僧・南淵請安(みなぶちのしょうあん、生没年不詳)は、そのまま32年の長きにわたって中国に留まり、隋滅亡から唐建国に至るまでを見聞してから640年に帰国する。

その南淵請安の門下で学んだのが、後に大化の改新の中心人物となる中大兄(のちの天智帝)と藤原鎌足であった。二人は、師の請安から聞く唐土の話に興奮しながら、やがて自らが決行する「革命」の計画を練っていたのかもしれない。

当たり前のことだが、遣唐使の前には遣隋使があり、またそのような国家事業として派遣された使節団以外にも、少なからぬ人々が日本から大陸へ渡り、また大陸から来日して帰化日本人となっていた。

中国大陸や朝鮮半島で王朝交代があれば、必ず被迫害者の一群が出現し、逃げるように日本へ渡ってきたのである。

ずっと後世になるが、漢民族の明が倒れ、満州族の清が成立した17世紀半ばにも、明に仕えていた多くの文人が、日本へ亡命して来た。

明の儒学者・朱舜水(しゅしゅんすい、1600~1682)もその一人である。朱舜水は、台湾に渡って明朝再興を目指す鄭成功(ていせいこう、1624~1662)の使者として、救援を求めるため、徳川幕府の鎖国下にある日本に派遣されていたが、やがて復明運動を諦めて亡命。水戸藩の徳川光圀に招かれて、長崎から江戸へ移住する。

その後、朱舜水が日本に伝えた学識は、水戸学への思想的影響にとどまらず、広く日本の財産となった。

赤穂浪士に孟子の末裔

今日が3月14日ということで思い出した。忠臣蔵の発端となる江戸城松の廊下での刃傷事件が起きたのは、元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)である。

浅野内匠頭は即日切腹、播州赤穂藩は改易。しかし、もう一方の吉良上野介はお咎めなし。亡君の無念を晴らすため、1年7カ月の後、赤穂四十七士が吉良邸へ討ち入った。

赤穂浪士の一人、武林隆重(通称、唯七)の祖父は、豊臣秀吉による遠征軍(文禄・慶長の役)で日本軍の捕虜となった明軍の中国人兵士・孟二寛(日本名、渡辺士武)である。

孟二寛の遠祖をたどっていくと、古代中国の思想家・孟子(もうし、紀元前3世紀ごろ)にたどりつく。本当かどうかは分からない。ただ、そう思いこみ、そのように言い張ることで、中国人の血脈は「確定」する。

日本人の理解を超える話だが、これが中国人にとっては圧倒的に重い意味をもつ価値観なのである。孔子の子孫の系譜などは(どこまで正確かは知る由もないが)現在83代に至っているらしい。

それが漢民族の宗族主義というもので、男系中心の血脈を絶対的に重視する。したがって、日本人のように「家名」を存続させるため他家から婿を迎えたり、養子縁組をしたりすることは、中国人の発想にはない。そんな日中の明確な違いもあることは、比較文化論としてはおもしろいテーマになるだろう。

いずれにしても、吉良上野介に二番太刀をつける武功を上げた武林唯七は、今も日本人の同志とともに、泉岳寺の赤穂義士墓所に眠っている。ちなみに切腹の前、辞世の句を漢詩にしたためたのは、武林唯七ひとりであったという。

日本史のなかの中国人

本文は、純粋な文化論というよりも、歴史の中で中国人と日本人がどのように関わり合ってきたかを中心に述べている。執筆の意図としては、日中の両国の人々が、意外なところで、さして抵抗感もなく混在していたことを再確認できればいい、という程度だ。

先ほども少し触れたが、大陸で明朝が滅んだ後、台湾を拠点に明の再興を目指した鄭成功は、今日でも、中国・台湾を問わず、民族的英雄として人気が高い。 

鄭成功は、日本の平戸で、日本人女性を母として生まれた。その鄭成功を題材に描かれた近松門左衛門の人形浄瑠璃『国性爺合戦』は、史実からはほど遠い内容だが、和物の芝居のなかに異国の物語が展開されるのは珍しい。

ある日、ふと通りかかった街角で、おもしろい表示板を見つけた。

場所は、東京の上野広小路の近くである。明治21年(1888)に日本最初の喫茶店・可否茶館(かひさかん)が、この地にできたという。木造2階建ての洋館で、なかなか立派な建物だったらしい。

表示板の説明に従うと、喫茶店の設立者の名は鄭永慶。この人物の先祖は、鄭成功の弟・七左衛門だという。

表示板が立っていたのは、ある家電製品会社の植え込みの中だった。少し話を伺いたくて建物の中へ入り、受付の女性に申し出ると、出てきた社員の方が親切に応対してくれた。関連の書籍なども無料でいただき、謝意を述べて去った。

明治の喫茶店で、うまいコーヒーを味わったような気がした。 

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