朝辞白帝彩雲間
千里江陵一日還
両岸猿声啼不住
軽舟已過萬重山
朝(あした)に辞す白帝(はくてい)彩雲の間。千里の江陵(こうりょう)一日(いちじつ)にして還(かえ)る。両岸の猿声(えんせい)啼(な)いて住(つ)きざるに。軽舟(けいしゅう)已(すで)に過ぐ万重(ばんちょう)の山。
詩に云う。早朝に、色鮮やかな朝焼け雲のたなびく白帝城を出発する。三峡を下れば、千里もの距離がある江陵まで、たった一日で着いてしまうかと思うほど速い。長江の両岸では、猿の啼き声が絶え間なく続く。その中を、私の乗った小船は、幾重にもかさなる峰を切り開くように、あっという間に進んでいくのだ。
李白(701~762)このとき25歳ぐらいか。詩にも勢いがあって、すがすがしいが、さすがに若さゆえの青さも感じられる。ただ、何百回読んでも、この雄大な山河をここまで詠じ上げ得るのは李白をおいて他にはない、という結論に達してしまう。
中国には「李杜の国」という美称にちかい別名がある。李白と杜甫(712~770)。それぞれ詩の見事さは言うまでもないが、作風はまるで異なっているといってよい。杜甫の詩は、よく涙を流す。自身の不遇や貧困も、離れた家族への哀惜も、自分の病気や老衰につけても、杜甫は実によく泣いた。涙の光が、杜甫の詩の輝きといってよい。
これに対して李白は、一例を除けば、詩において泣いた例がない。その例外の一首とは、友情を結んでいた阿倍仲麻呂が日本へ帰る途中、船が難破して死んだという悲報を聞いて詠んだ、李白の慟哭が聞こえてくるような詩「哭晁卿衡」である。なお阿倍仲麻呂は、このとき海中に没してはおらず、ベトナムまで流されたものの2年後に長安へ帰りついている。
李白という中国文学史で最も著名な詩人について、つくづく不思議に思う。伝記上のその「動き」が、あまりにも大きく、軽やかで、ときに人間離れしているのだ。
四川を始発点とする李白の大放浪は、その生涯にわたって続く。目の前に中国地図を広げれば、その広大な範囲の各所に李白の足跡が及んでいることに気づく。
その間に、李白が要した旅費や食費、斗酒を下らぬ酒の代金などが一体どこから湧いていたのか。下世話ながら、そんな現実的な関心さえもつ。そうした金財は、杜甫には全くない。
李白は「詩仙」の名の通り、中国の広大な大地から天空、さらには月世界までも、仙人のごとく飛び回っていたとしか思われない。その詩を味読する度に「李白は人間ではなかった」を、自分を納得させる結論にしている。
(聡)
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