近年は、手打ち蕎麦がブーム。そば打ちが体験できる道場や教室などがあちこちで見られます。特に中高年の男性に人気があるようですが、蕎麦はなかなか奥が深いそうです。
日本で蕎麦の栽培が始まったのは縄文時代。当時は製粉技術がないため、主食にはならず、粒のまま食べるのが主流でした。鎌倉時代に中国から挽き臼が伝来し、製粉が可能となったため、そばや小麦などの粉食が急速に普及しました。
そばの製粉は、玄蕎麦(殻つきのそばの実)の殻を割り、中の実(抜実)を粉砕します。抜実を粉砕した際、最初に出てくる粉を篩いにかけた白い粉を一番粉といいます。澱粉質が主体で甘味はありますが香りは微弱です。その一番粉を取った後、さらに引き続けると胚芽の部分も粉になって出てきます。これが二番粉で胚芽が入るため微かな茶色を帯びています。その後、挽き続けるとそばの実の種皮(甘皮)の部分が挽き出されてきます。これが三番粉で、甘皮の色が出て二番粉よりずっと濃く、香りもあります。最後に出るのが末粉と呼ばれる粉で甘皮を多く含み、色が一番濃くなります。蕎麦の実の各層を取り分けないで、そのまま三番粉まで挽き込んだそば粉を「挽きぐるみ(全層粉)」といいます。
現在ではたくさんの蕎麦粉を大量に粉砕するため、機械で製粉することが多いのですが、熱を帯びるため蕎麦の風味を損なってしまいます。一方、石臼で挽いた蕎麦は、粉焼けしないため風味のよい蕎麦粉に仕上がります。
蕎麦屋には「更科そば」(御膳そば)や「藪そば」(田舎そば)と書かれている看板があります。もともとは蕎麦屋の系列を表すものだったそうですが、現在は単に使う蕎麦粉の種類や出来上がった蕎麦の違いを表すものになっているようです。
更科そばは、江戸時代に信州更級の清右衛門(太兵衛)が保科家の勧めで始めた蕎麦屋がはじまりで、更級と保科を組み合わせて「更科」としたそうです。蕎麦の実の中心に近い白い部分(一番粉)のみを精製した更科粉(御膳粉)を使うのが特徴で、色が白っぽく口当たりの上品な蕎麦です。
藪そばは更科そばより早くからあったと考えられています。雑司ヶ谷鬼子母神の東の方の薮の近くにあった「爺が蕎麦」というそば屋が「薮の内そば」と呼ばれ、そば屋の屋号に「薮」が付いたのが始まりだそう。「薮の内そば」の評判が高かったので、薮を名乗る店が増えたのだそうです。そばと蕎麦の実の外側、黒い蕎麦殻まで一緒に挽き込んだ藪粉(田舎粉)を使うのが特徴。黒みがかった色と強い香りがあり、更科そばよりも栄養があります。通好みの蕎麦とも言われます。
お店で出されるそばにはざる蕎麦と盛り蕎麦がありますが、その違いについては、現在海苔のかかったものを「ざる蕎麦」、かかっていないものを「盛り蕎麦」と呼ぶのが主流です。元々ざると盛りの区別は、蕎麦の器(容器)の違い(ざる蕎麦は竹ざるに乗せる)と、蕎麦つゆ(「ざる蕎麦」は通常よりコクのあるつゆ)の違いだったそうです。蕎麦そのものの麺質(粉質や種類など)に違いがあるとする考え方や、ざる蕎麦が「上」で盛り蕎麦が「並」とする考えもあるようです。
面白いことに、蕎麦の器には「蒸籠」がありますが、蒸籠に乗った蕎麦でも海苔がかかっていればざる蕎麦で、同様にざるに乗っていても海苔がかかっていなければ盛り蕎麦と言われるそうです。ざる蕎麦の発祥は、深川の州崎弁財天前にあった伊勢屋が、蕎麦を竹ざるに乗せて出したところ評判が良く、大いに売れたことによります。他の蕎麦屋がこの手法を真似ることで「ざる蕎麦」が広まりました。しかし、冷たい蕎麦に刻んだ海苔を散らすようになったのは明治以降になってからで、当時の伊勢屋流のざる蕎麦には海苔がかかっていなかったと思われます。ちなみに、盛り蕎麦の「盛り」という語は、現在の掛け蕎麦である「ぶっかけ」の対義語で、元禄時代に流行した「ぶっかけそば」と区別するために、汁につけて食べるそばを「もり」と呼ぶようになったのであって、ざる蕎麦の「ざる」の対義語ではないそうです。
最後に「新そば」についてですが、秋蒔きのそばで9月から11月に採れたものが年内に食べる「秋新」で、通常新そばと呼んでいます。「秋新」に対し、「夏新」というのもあり、これは6月中旬から8月中旬に収穫されます。夏新より秋新のほうが味・香りが断然優れているため、あえて秋新だけが「新そば」と呼ばれ、もてはやされてきました。収穫されたばかりの「新そば」は種皮の緑色が鮮やかで香りも高く、もちろんその味わいは何とも言い難いものがあります。 江戸の頃より愛されてきた秋一番の味である新蕎麦で、季節を感じてみてはいかがでしょうか。
(文・大鬼)
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