従軍慰安婦像を設置した中国系サンフランシスコ市長 当選背景に江沢民派の「女傑」
大阪市の姉妹都市、米カリフォルニア州サンフランシスコ市に設置されている中国民間団体寄贈の慰安婦像と碑文の受け入れをめぐる決議文書に、エドウィン・M・リー(中国名:李孟賢)市長が22日に署名した。像と碑文は今後、市の公共物化する。この事態を日本政府は「極めて遺憾」とし、相容れないとの姿勢を示している。60年続く日米の姉妹都市の間に軋轢を入れた慰安婦像を受け入れたリー市長の背景には、現地中国コミュニティ権力者の共産党江沢民派の「女傑」の力添えがあった。
サンフランシスコ現地の中国コミュニティの政治権力を牛耳っていたとされる女傑・白蘭(英名:Rose Pak)。1948年に湖南省で生まれた。文化大革命期の1950代に中国を離れ、香港、マカオのカトリック系寄宿学校で学んだ。1967年にサンフランシスコ女子大学の奨学金を受け米国に入国。70年代は新聞記者を務め、サンフランシスコ中華総商会の有力者で国民党系ステファン・ファン(中国名:方国源)との長年の同棲を機に、現地コミュニティの権力に近づく。
京都大学の東南アジア研究者・園田節子氏によると、中華総商会はかつて、台湾国民党政府と米国のパイプ役を務めていたが、1979年米中国交正常化で影響力を失い、チャイナタウンに大量移民した共産党政権を支持する労働組合系の中国人に飲まれていく。
商会の顧問だった白蘭は中国系米国人の影響を左右した。市長選の結果を動かし、市政府高官、市長、訪中を手配した。また、サンフランシスコへの中国移民増加に注力し、米国の2010年国勢調査では中国系米国人を人口5分の1を占めるまでに増加させた。正しく計算されない不法移民も含めると人口3分1に達するともいわれる。
白蘭は70年代後半、チャイナタウンの貧困者の医療サービスを提供することで現地の支持を集めた。つい最近でも、高齢者・貧困者向けの中国系病院建設のために中国民間団体、資産家に働きかけ資金調達係を担った。2016年4月、費用1億8000万ドルと言われる8階建ての病院「ペイシェント・タワー」が完成した。
飲食代や洗髪代を払わない、長期の脱税との醜聞 FBI調査対象とも
いっぽう、在米中国紙・人民報によると、麻薬、武器、売春取引など裏社会にも影響力を持っていたとされる。外食代や床屋の代金不払いの常習犯といった地元の醜聞もある。長期の脱税や、中国共産党要人と密接な交流を重ねていたとして、共産党スパイ容疑で連邦調査局(FBI)調査対象とも伝えている。
新唐人テレビによると、白蘭は2001年に当時のサンフランシスコ市長ウィリー・ブラウン氏の訪中の案内役となり、米国一都市の有力華人に過ぎないにもかかわらず、ブラウン氏を国賓待遇で迎えさせ、当時の江沢民国家主席とも会談した。江沢民氏は1999年以降、気功法・法輪功の徹底弾圧を始めており、サンフランシスコでの人権に関する議案を阻止したことを報告すると、江沢民元主席は称賛したという。
2011年に同市初となるアジア系米国人市長の誕生となったエドウィン・M・リー市長の当選も、資金調達やロビー活動など白蘭の働きかけがあったとされる。「アメリカの重要な都市で、華人市長を作る時がついに来た、この機会は逃さない」と意気込んでいた。当選後も白蘭は同市顧問を務めた。
しかし、リー市長が任期を待たずに辞任する意向を示すと、リー市長に対する失望感を口にし、冷たく突き放した。2016年7月放送の現地メディアFORA.tvのインタビュー番組で答えている。
「彼は自分の影(虚勢)に恐れているのではないか。市長という座に就いたことで勘違いしているのではないか。彼はどんな中国系米国人のなかでいかなる重要ポストにもついていない」「カルフォルニアという行政に対して大きな役割もできないだろうね」。
腎臓を患う白蘭は2016年、中国広州で臓器移植手術を受けて数カ月、滞在を続けた。現地有力紙サンフランシスコ・エグザミナーの報道によると、白蘭は2016年5月23日には米国に戻り、サンフランシスコ国際空港では獅子舞が踊り、太鼓が打ち鳴らされ、仰々しく出迎えられていた。
同紙記者は「お腹を撫でてほしいと腹ばいになる子犬のように、多くの政治関係者が彼女を取り囲んだ」と空港での状況を記している。出迎えたのは現リー市長、ブラウン前市長、ギャビン・ニューサム元市長、暫定警察署長、元警察署長、ロビイスト、行政監査委員、開発局長など。
同紙によると、歓迎の宴の席へと移動するため、ブラウン前市長と共にロールスロイスに乗り込んだ白蘭は、訪中前と比べると健康そうに見えた。豪華な会場で群衆に囲まれる中、「私の(中国での担当)医師は、命が40~50年は延長したと言っていた」と話した。数カ月間で何人もの人物が彼女を見舞ったが「一部は私の死を見届けるために来たようだった」「彼らは(健康的になった自分をみて)目の錯覚だと思っているね」と冗談を述べた。
出迎えた政治家らに対して、「向こう数年はあなたたちに尽力しましょう!」と、現地コミュニティに対して手腕をふるい続けるとの意気込みを語ると、歓声が上がったという。
白蘭帰国の歓迎ムードの中、同市は、中国コミュニティへの尽力を称えてチャイナタウンのある路地を「白蘭之路」と名づけた。しかし、医師の話は実現しなかった。同年9月、白蘭は同市自宅で亡くなった。
(編集・佐渡道世)
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