≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(82)

帰って来る道中、張小禄おじさんが私に言いました。「全有は、養母に殺されたようなものだ。もし養母が金を惜しまずに、医者に診せて注射でもしてやっていたら、死ぬこともなかったろうに。養母は頑なに巫女に頼んで、毎日お札を煎じて飲ませていたようだが、あんなものが薬になるかい?元気な人だって死んでしまうよ。本当に惜しい人を亡くしたもんだなぁ」

 李興忠おじさんは、養母にも福がないと言いました。「こんなに良く手伝いをする息子にむざむざ死なれるなんて。全有は成長したら、きっと養母に孝行を尽くしただろうに。全有はたいへんに物分りが良く、養母に本当によくしていたのに。休暇期間には帰ってきて、いつも家で養母の手伝いをあれこれとしていたのをよく見かけたよ」

 私たちが家に帰ってみると、趙おばさんが一人オンドルの上にぽつんと坐っていて、家の中はがらんとしてひっそりと静まり返っていました。オンドルの上には、弟が使っていた布団が積み上げられていました。あの白い敷き布団が今は黒ずんでおり、黒い点々のしみが方々に着いていました。私は黒く汚れている敷き布団を見て本当に心苦しくなりました。

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はじめに: もし私が依然、普通の人と同じ考え方であったなら、八歳のときに家族と生き別れ、死に別れて以来、数十年にわたって心の中に鬱積しつづけた傷を解きほぐすことはできなかったでしょう。
帰って来る道中、張小禄おじさんが私に言いました。「全有は、養母に殺されたようなものだ。もし養母が金を惜しまずに、医者に診せて注射でもしてやっていたら、死ぬこともなかったろうに。
中学卒業と高校受験、趙おばさんの死 学校が始まった後、私たちは高校に進学するため、毎日勉強に忙しく、私はずっと沙蘭に帰ることができませんでした。
私たちが中学を卒業した57年は、高校の受験は大変に困難でした。
一言では言い尽くせない高校での運命 高校に上がった後、私は1年1組に配置され、関桂琴は2組でした。
寧安一中の時に、孟先生以外で私の面倒をいろいろと見てくれたのは校長の王建先生でした。
文化大革命の間、王建校長はすでに異動していて、寧安一中を離れていました。
2004年に台湾の益群書店より『医山夜話』が出版された。これは、漢方医が患者と共にどのようにして多くの不思議な病を治したかを綴った実話集である。病気と聞くと、人々はよく病院での診断、治療、薬などを思い浮かべるが、人の心、道徳、正念、善行などが病と深く関係していると考える人は多くないだろう。