≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(81)
その時、私は溢れ出る涙を抑えることができず、弟に何を言えばいいかわかりませんでした。私は本当に多くの事を弟に聞きたかったし、多くの事を話してあげたかったのに、何も口から出てきませんでした。
私は、全身痩せ細り、骨と皮ばかりになってしまった弟を懐に抱きました。人がこれほどまでに痩せ細るとは、本当にかわいそうでなりません。
私は弟の頭を抱き上げましたが、こみ上げる涙が溢れ出て、彼の頭や顔にこぼれ落ちました。弟はそれ以上話をする気力がなくなったようです。目を見開き私を見つめ、何か言いたそうでしたが、何も言い出せませんでした。黒目は少し上へひっくり返り、息も絶え絶えになりました。
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はじめに: もし私が依然、普通の人と同じ考え方であったなら、八歳のときに家族と生き別れ、死に別れて以来、数十年にわたって心の中に鬱積しつづけた傷を解きほぐすことはできなかったでしょう。
その時、私は溢れ出る涙を抑えることができず、弟に何を言えばいいかわかりませんでした。
趙おばさんはこの時になって、私に養女にならないかと言ってきました。それは当時のように私を追い出すような口ぶりではありませんでした。
中学卒業と高校受験、趙おばさんの死 学校が始まった後、私たちは高校に進学するため、毎日勉強に忙しく、私はずっと沙蘭に帰ることができませんでした。
私たちが中学を卒業した57年は、高校の受験は大変に困難でした。
一言では言い尽くせない高校での運命 高校に上がった後、私は1年1組に配置され、関桂琴は2組でした。
寧安一中の時に、孟先生以外で私の面倒をいろいろと見てくれたのは校長の王建先生でした。
文化大革命の間、王建校長はすでに異動していて、寧安一中を離れていました。