漢の文帝:「長患いの床の前に、孝行息子有り」
【大紀元日本5月7日】漢の文帝(前202-前157)は、「無為にして治(じ)す」(何もしないで天下が治まる。古代道家の理想とした政治)と称えられ、民をわが子のように愛した君主であったが、同時に親孝行の皇帝としても知られる。
文帝は、漢の高祖・劉邦(前256-前195)の三番目の息子で、本来皇太子ではなかったが、その孝行ぶりと徳のあるすぐれた行いによって、後に群臣に皇帝に擁立された。
文帝は即位後も、生母の薄太后に献身的に孝行を尽くした。薄太后が病に倒れ、三年間起き上がれなかったことがあるが、そのとき文帝は床のそばで心を尽くして世話をし、ぐっすり眠ったこともほとんどなかった。母にいつ呼ばれてもいいように、着替えもせずに備えたこともしばしばある。また、薬を煎じたときは、母に飲ませる前に、苦すぎないかどうか、熱くないかどうか、まず自分で確かめたものである。
薄太后はそれを見て、いたく感動するとともに、息子にすまなく思い、「宮中には私の面倒をみてくれる人が大勢いるのに、お前はどうしてそんなにも骨身を惜しまず、私の世話をしてくれるのですか。私の病は二、三日で良くなるものでもないのだから、これからは宮女たちに世話をさせたらいい」というと、文帝は跪いてこう答えた。「もし、母上が御存命のうちにお世話ができないとしたら、私を育ててくださった御恩にいつ報いればいいのでしょうか。」
現代の人々は、「長患いの床の前に、孝行息子無し」などとでたらめなことを言うが、二千年あまり前の漢の文帝は、自らの行いで、それが間違いだということを教えてくれている。彼は、自らの我慢強さ、穏やかさ、勤勉、思いやりで、『弟子規』(清朝後期に編まれた子供向けの道徳啓蒙書)にいう「親に病あれば、薬をまず自ら味見し、昼夜を問わず仕え、床のそばを離れない」を実践し、我々に、「長患いの床の前に、孝行息子有り」ということを示してくれたのである。
漢の文帝の仁と孝は、四方に遍く伝わり、全ての臣下や庶民を感化し、ついには、次の景帝の時代と合わせて、「文景の治」と呼ばれる太平の世を築き上げたのである。