【大紀元日本7月19日】石田英一郎さんは、明治36年(1903)-昭和43年(1968)を駆け抜けます。三十路を境に潔癖なマルクス主義者から、ヒューマンの原郷を歴史民族学的に探究する文化人類学者となった人です。男爵の子息がマルキスト?それは誰もが怪しむ、時代の取り合わせでした。本人はそんなことに頓着せず、お構いなしにいつでも信じる方角へと向いました。
大正13年に京都帝国大学に入学すると、時代の風に乞われるように京大社会科学研究会に入会しました。東京・一高時代に出会った共産主義にさらに身を投じ、すぐさま学生運動のリーダーとして頭角を現しました。一字一行に及ぶ正義感に燃える潔癖な英一郎さんが、共産主義の理想と幻影の間で揺れ動く自身のヒューマニズムに、やがて疑問を感じるようになるのは時間の問題でした。
昭和3年、いわゆる第二次日本共産党3・15事件に連座して逮捕され、昭和4年に刑が確定します。昭和9年に大阪・堺刑務所を出所するまで、5年間を過ごした獄中で孔子の「論語」を読んで、共産主義運動に託した不徹底なヒューマニズムとの格闘に決着をつけました。
英一郎さんの祖父・石田英吉は土佐に生まれ、坂本竜馬の海援隊に身で活躍した立志伝中の人でした。司馬遼太郎著『竜馬がゆく』にも登場する快男児です。英一郎さんは獄舎での鬱屈した挫折感の中で、祖父伝来の我が血が騒ぐヒューマニズムの由来に、思いを巡らすことがあったはずです。
英一郎さんはマルクス主義に熱中する傍ら、京大時代にロシア語の勉強に打ち込んでいました。ニコライ・ネフスキー(言語・民族学者)先生に私淑して学んだことが、文化人類学を世界史の広がりの中で展開する着想を育てました。獄中で民族学の勉強に励んでいたのです。英一郎さんは非転向のまま(日本の権力に屈服出来なかったのです)、心的転回を果たして出所します。柳田国男の民俗学研究会に出席して、自分が羽ばたく方向を見定めました。
昭和12年に海外へ雄飛し、ウイーン大学で「馬」の文化について本格的に研究を始めました。日本における文化人類学の先駆的作品『河童駒引き考』が誕生します。駒とは英一郎さんにとって「竜馬」に他なりません。三蔵法師がまたがる馬も、中国の竜馬が変身したものでした。日本の民俗学を世界史の拡がりの中で、比較研究する文化人類学の黎明を告げたのです。そこに祖父の血が流れる「竜馬」のいななきが、流れ込んでいたはずです。
『河童駒引き考』の伝説の背後にある人類文化の想像力は、マルクス主義が未来に用意しようとする世界より、はるかに普遍的であるという確信に満ちたものでした。英一郎さんはマルクスを河童に乗り換えて、全ての世界の母なる国の姿を訪ねようとしたのでした。国家権力がそこで解体され、安らいで背伸びしているのを見たかったのかも知れません。
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