【ニュースレターが届かない場合】無料会員の方でニュースレターが届いていないというケースが一部で発生しております。
届いていない方は、ニュースレター配信の再登録を致しますので、お手数ですがこちらのリンクからご連絡ください。

世界初の「失われたものの博物館」

アレクサンドリア図書館の焼失、アイルランドの王冠宝石の消失、琥珀の間の喪失──。歴史の中で、文化的に極めて重要なものが失われる瞬間は何度もあり、そのたびに私たちは少しずつ文化的な豊かさを失ってきました。

かつて存在した美しい写本や宝飾品、武器、道具の数々は、時の流れの中でどれほど多くが姿を消してしまったのでしょうか。この問いは、何世紀にもわたって考古学者や博物館の学芸員たちを悩ませてきました。そしてこのテーマは、人々の想像力を刺激し、『インディ・ジョーンズ』や『ナショナル・トレジャー』のような冒険物語を生み出す原動力にもなりました。

ユネスコは、こうした文化財の損失や不正取引に対する意識を高めることを目的に、新たな試みとして「盗まれた文化財のバーチャル博物館」を立ち上げました。絵画、陶器、楽器など多様な分野の盗難品を紹介するこの博物館では、誰でも無料で臨場感あるデジタル空間を「歩いて」楽しむことができます。展示されているのは、すべて行方不明となった文化財です。

「青銅製の牡馬、馬、その他の小像」、紀元前8世紀、古代ギリシャおよびイタリア。ルーヴル美術館所蔵。ルーヴル美術館所蔵のこのコレクションの左端2体の像によく似た青銅製の馬像が行方不明となっている。(パブリックドメイン)
紀元前8世紀の「青銅の馬とその他の小像」。古代ギリシャおよびイタリア出土。ルーヴル美術館蔵。左端の2体とよく似た青銅の馬像が行方不明になっています。(パブリックドメイン)

このバーチャル博物館には、46カ国から寄せられた250点以上の盗難文化財が展示されています。3Dモデルや写真、詳細な説明とともに閲覧することができ、ヨーロッパと北米から96点、ラテンアメリカとカリブ海地域から57点、アフリカから51点、アラブ諸国から36点、アジア・太平洋地域から37点が出展されています。

このプロジェクトは、サウジアラビア王国がインターポール(国際刑事警察機構)と連携して資金提供を行い、2025年9月29日に公開されました。展示は約250点ですが、インターポールによると、実際にはおよそ5万7,000点もの盗難文化財が闇市場で流通していると推定されています。インターポールはそのデータベースを管理しており、利用者が盗難文化財を識別できるアプリ「ID-Art」も開発しています。

このバーチャル博物館はVRヘッドセットにも対応しており、「講堂」「盗難文化財の部屋」「返還と回復の部屋」の3つの展示空間で構成されています。「講堂」では、ユネスコと博物館の目的について学ぶことができ、文化的記憶の保存や盗難文化財への意識向上に加えて、各国が文化財の管理体制や盗難防止策を強化するための支援も目的としています。

博物館の声明には次のように記されています。

「ユネスコの『盗難文化財バーチャル博物館』は、単なるデジタル体験ではなく、何よりもまず、現場で実際の影響をもたらし、盗まれた文化財を取り戻し、そしてすべての加盟国が自国の文化遺産を保護することを支援することを目的としたプロジェクトです。すべての加盟国がその恩恵を受けられるよう、このバーチャル博物館プロジェクトには、特定のニーズに合わせた能力構築活動も含まれており、まだ国内目録、盗難物の目録、またはインターポールの『盗難美術品データベース』に登録された物品を持たない国々を支援するものとなっています」

このパイロットプログラムの一つは、すでにトーゴで始動しています。

「ヒンス・アンダース」、1904年、アンダース・ゾルン作。キャンバスに油彩、縦79.5cm×横64.5cm。これも行方不明の作品。(パブリックドメイン)
アンデシュ・ゾーン作『ヒンス・アンダース』(1904年、油彩/カンヴァス、縦約81センチ、横約65センチ)。この作品も行方不明です。(パブリックドメイン)

 

盗難文化財の部屋

博物館のメイン展示は「盗難文化財の部屋」です。ここでは、失われた遺物の数々がデジタル再現として展示されています。ユーザーは地域、色、用途などで検索できるほか、自由にスクロールして探索することも可能です。展示の中には、紀元前1世紀のルーマニアの龍頭の金の腕輪、紀元前600年のキプロスの陶器、18世紀グアテマラの銀製教会演壇、オランダの画家ヘルマン・ヘンステンブルフによる1698年の絵画『メメント・モリ(Memento Mori:死を想え)』などが含まれています。

ダキアの金の腕輪、紀元前2世紀から紀元後1世紀。金製。ルーマニア国立歴史博物館所蔵。(パブリックドメイン)
ダキア金製腕輪(紀元前2世紀~紀元1世紀)。金製。ルーマニア国立歴史博物館蔵。(パブリックドメイン)

 

中でも注目を集めるのは、ガリレオ・ガリレイの著書『星界の報告(Starry Messenger)』の初版本です。これは1610年に出版された天文学の基礎的著作で、当時発明されたばかりの望遠鏡による観測を記録したものです。輝く勲章や聖像、きらめく大理石像、黒く重厚な偶像など──展示されている品々は、ホメロスの時代から19世紀にかけてのものまで幅広く、人類の芸術と歴史の豊かさを伝えています。世界中を探しても、「展示物が減っていくことを望む博物館」は他にないでしょう。

これらの展示品は、過去の美と神秘への畏敬の念を呼び起こすと同時に、その喪失に対する深い悲しみをも感じさせます。博物館の公式サイトには次のように記されています。「文化財は、それを生み出した共同体の物語を運びます。文化財が盗まれると、私たちは自分たちのアイデンティティの一部を失うのです。失われた文化財について学ぶことは、その回復への第一歩です」

ガリレオの「星空の使者」は、望遠鏡が発明された当時、特に天文学の基礎となる著作でした。(パブリックドメイン)
『星界の報告』は、望遠鏡の発明直後に書かれた、天文学における基礎的な著作でした。(パブリックドメイン)

 

返還と回復の部屋

博物館の第3の展示室「返還と回復の部屋」では、発見・返還された文化財を紹介しています。しかし、現在展示されているのは、チリの税関で押収されモロッコに返還された三葉虫の化石3点のみです。

このバーチャル博物館は、世界各地の人類史の広がりを垣間見ることができる場所です。そこには人類の文明の力強さと同時に、その儚さも映し出されています。私たちが過去を知る多くの手がかりは遺物を通してしか存在しませんが、その遺物すら失われる危険にさらされています。ユネスコのこの新しい博物館が、過去の痕跡を消し去ろうとする数々の力に抗い、さらなる損失を防ぐ一助となることが期待されます。

(翻訳編集 井田千景)

英語文学と言語学の修士号を取得。ウィスコンシン州の私立アカデミーで文学を教えており、「The Hemingway Review」「Intellectual Takeout」および自身のサブスタックである「TheHazelnut」に執筆記事を掲載。小説『Hologram』『Song of Spheres』を出版。