西洋の歴史において、初めてその「肉身が奇跡的に保存された聖人」とされているのが、聖セシリアです。彼女は後に西洋で音楽の守護聖人として崇敬されました。出生年は定かではありませんが、没年はおおよそ西暦177年とされています。セシリアは、ローマの裕福な名門一族に生まれ育った上流階級の女性でした。幼くして生涯独身を誓っていたにもかかわらず、家族の手配により若き貴族ヴァレンリアンという男性と結婚させられました。結婚の夜、セシリアは夫ヴァレンリアンに対し、自身の貞潔を守るという誓いを尊重して欲しいと説得し、彼に天主を信じる信仰を受け入れさせ、さらにその弟ティブルティウスも共にキリスト教徒へと導きました。

伝えられるところによれば、結婚披露宴の際、親戚友人たちが歌い踊る中でセシリアは一人静かに座り、神への讃美の詩を口ずさんでいたといいます。その夜、彼女は新郎ヴァレンリアンに「私には神の守護天使がおります。もしあなたが俗人としての夫婦行為で私を汚そうとするならば、その天使は怒り、あなたも罰せられます。しかし、もしあなたが私の処女性を尊重するなら、その天使は私を愛するようにあなたを愛してくれるでしょう」と語りかけました。ヴァレンリアンが「天使はどこに?」と問うと、セシリアは「あなたが洗礼を受ける日こそ、あなたがその天使の御像を仰ぐ時です」と答えました。そこでヴァレンリアンは洗礼を受けキリスト教徒となり、妻のもとに戻ると、本当にセシリアのそばに天使が立っているのを目撃しました。天使はこう告げました。「私はあなた方二人にそれぞれ花冠を授けましょう。これは天からのもので、あなた方が生きる生活を象徴しています。もしあなたが神を信じ続けるなら、神は天国の世界から永遠の花の香りを賜るでしょう」。その後、天使はセシリアに薔薇の花冠を、ヴァレンリアンに百合の花冠を授け、天からの香気が部屋中に満ちたといいます。この時、ヴァレンリアンの弟ティブルティウスが訪ねてきてこの光景を目撃し、彼もまたキリスト教徒となりました。

当時、キリスト教徒であるということは極めて危険でした。初期のキリスト教徒に対する迫害の中、多くの信徒が殺害され遺体を野に捨てられていました。新しくキリスト教徒となったヴァレンリアンと弟ティブルティウスは、殉教者の遺体を探し出して秘密裏に埋葬するという活動に積極的に取り組みました。そしてついにある日、彼らは捕らえられ、当局から信仰を放棄するよう命じられました。死を目前にして、彼らは信じる真理を勇敢に選び、二人とも斬首され遺体を捨てられました。同時に殉教したのがマキシマスという人物です。ヴァレンリアンとティブルティウスがその真理への確固たる擁護ぶりと死に臨む落ち着いた勇気を示したのを目の当たりにしたこの軍人が、自らも「私もキリスト教徒です」と宣言して処刑されました。セシリアは彼らの遺体をこっそりと埋葬した後に逮捕され、同様に「異教の神に供え物を捧げれば助かる。そうでなければ死を免れない」という選択を与えられましたが、セシリアは迷わず後者を選びました。
迫害者たちはセシリアを処刑しようと決めたものの、人々の非難を恐れていました。何しろ彼女は若く、美しく、純潔であったため、「異端」信仰のために極刑に処すというのは見苦しく、また世論の反発を招く可能性があったからです。そこで迫害者たちは密かにセシリアを始末しようと計画し、自宅の蒸し風呂の中に監禁し、自ら窒息死するよう仕向けました。しかし一日経っても奇跡的にセシリアは生きており、次に凄腕の処刑人を送りましたが、その冷酷な男もセシリアの前ではどうしても刃を下すことができませんでした。最終的に三度刃を振るうも、首を斬り落とせず逃げ去りました。その時、セシリアの喉の傷は深く、頭と首が半ば分離した状態にありましたが、尚も息はあり、意識は清明でした。彼女は地に伏し、顔を床に向け、両手を祈りの姿に組んでいました。そして三日三晩の後、ついに亡くなったのです。

他のキリスト教徒たちは、セシリアの遺体を豪華な衣装で飾り、柏の木の棺に納め、埋葬時には彼女が死に臨んだときの姿勢を保ちました。数世紀が過ぎ、822年に至って、教皇パスカル一世はセシリアの遺骨を、ローマにある彼女の名を冠した大聖堂へ移そうとしましたが、墓所が見つかりませんでした。ある時、教皇が祈っているとセシリアが顕現して正確な墓の位置を教え、実際にその場所が発見されました。教皇はセシリア・ヴァレンリアン・ティブルティウス・マキシマスの遺骨を共に教会の聖壇の下に埋葬しました。
さらに770年後、つまり1599年、教会の改装工事の折、聖壇の下から白い大理石の石棺二基が発見され、記録にあるパスカル一世の埋葬場所と一致しました。改装を担当した枢機卿パオロ・エミーリオ・スフォンドラートは石棺を開けるように命じ、現場には高官のみならず社会的に著名な人々が証人として立ち会いました。
記録によれば、石棺を開いたところ、セシリアの肉身は腐敗の兆候をまったく示さず、埋葬されたときの姿勢をそのまま保っており、首の傷も明瞭、衣服も傷まず血痕さえそのまま残っていたとされています。参列者は、セシリアが小柄な女性で、頭と顔を地に向けていたことを確認しました。聖骨に対する敬意から、さらなる検査は行われませんでした。発見した10月20日〜11月22日の約1か月間、当時の教皇クレメンス八世はセシリアの肉身を大聖堂の中央殿内に安置し、石棺の周囲の柵越しに人々が拝観できるようにしました。聖堂内は異例の豪華さで装飾され、棺から漂うかすかな香気が充満していたといいます。観覧に訪れたローマ市民があまりに多かったため、教皇は親衛隊を動員して秩序を維持させました。1か月後、大多数の枢機卿や各国の外交使節が列席する中、教皇は盛大な大ミサを執り行ったうえで、セシリアの肉身を再び聖壇の下に改めて葬りました。
当時、天才彫刻家であったステファノ・マデルノ(1576–1636)は、セシリアの肉身を実際に見たのち、その肉身が横たわっていたとされる姿勢を石造で再現しました。この世界的にも著名な作品は、今日までローマの聖セシリア大聖堂に安置されています。

参考資料:ジョアン・キャロル・クルーズ(Joan Carroll Cruz)『The Incorruptibles』(1977年、TAN出版社)
(翻訳編集 華山律)
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