高智晟著『神とともに戦う』(30) 孤独な者の孤独な夜④

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 一昨年(2006年)、中国人民銀行(訳注、中国の中央銀行に当たる)が資金洗浄防止条例を公布施行した。

何と数日内に、専門家や学者など5名から絶賛の大合唱が起こった。実のところ、立法の資格から見ても、この条例が確立した極めて非科学的で誤った制度など立法技術の面から見ても、この条例には数多くの構造上の欠陥が存在していた。けれども、(この条例について)私が真剣に考え研究を重ねてつづった文章は、中国国内のどのメディアからも拒否された。

想像しがたいのは、この文章が海外では高く評価されたことである。制度を通じた「念入りな教育」を受け続けてきた中国メディアは、自ら思考することもなく、あらゆる異なる声(たとえ、純粋に技術面の問題でも)を拒絶する。これが中国メディアの本能となったのである。

2004年末のスマトラ島沖地震で大津波が起こった際、国際社会は次々と救援を送った。中国政府および中国社会全体も並々ならぬ支援を行った。被災者に対する中国政府や国民の援助を、私は強く支持する。

ところで今回の被災地救援では、中国の大物スターがみな腰を上げ、中国メディアもこの種の「愛」の偉大な価値をところ構わず発掘した。これら大物スターやメディアの「真の愛」に対し、私には別の見方がある。

天災は逆らえないものであり、災害発生後に人道主義から援助することは必要であるとすれば、この種の必要に手を差し伸べるのは当然のことである。だが災害への人道援助は、対象者によって決めるのではなく、対象者の必要によって決めるべきなのだ。

中国のメディアは中国にあり、中国のスターは他でもない中国で暮らしている。そしてその中国は、強制立ち退きや職権乱用者の横暴によって、帰る家を失い陳情を続けている百万もの市民を生み出している。

そのようにして厳しい寒さにさらされている人は、北京だけでも十万に上るのだ。彼らの判を押したような共通点とは、我が家も生活の糧もないことである。彼らの境遇、非人道的な生存状態は被災地住民よりもずっと劣悪だ。

被災者にとって見れば、天災は人生における一種の恐ろしい体験である。一方、人災のため非人道的な境遇へと追いやられた、我々の社会にいる人々にとって見れば、家もなく衣食すら足りない非人道的な境遇とは、終わりの見えない生活状態にすぎない。彼らにとって最も危険なのは冬という劣悪な自然条件ではなく、彼らを陳情へと追い詰めた悪徳官僚が手配した追っ手なのである。

毎年、全国人民代表大会や政治協商会議、あるいは重要なイベントを迎えると、メディアからは毎回「全国の人民が喜びあふれる」様子が伝えられる。これを耳にすると私は自然と彼らを思い出す。「全国の人民が喜びあふれる」日はどれも、彼らにとって最も辛い日となるからだ。彼ら陳情者や「法輪功分子」および「六四天安門事件の被害者家族」は、みな厳しい監視下に置かれる。

特に「法輪功分子」や長期間にわたって陳情する人が、「全国の人民が喜びあふれる」日に連行されるのは、もう日常茶飯事となった(最近では、福建省泉州の34歳の博士課程を修了した研究生・林燕清。瀋陽の拘置所で非業の死を遂げた48歳の王金鐘。そして湖北省武漢の37歳の倪国濱。彼らの家族は私への手紙の中で、この種のことを告発した。特にすでに亡くなった王金鐘がまだ生きていた頃、毎回このようなイベントを迎える日には決まって連行されたという)。

これらの人々ももちろん、メディアや大物スターの「愛」や人道主義的な心遣い、援助をより必要としている。身近にいる同胞の非人道的な境遇に対して、心がいささかも動かないというのか。

これでは、この種の援助の人道的な色合いに首を傾げてしまう。ここまで筆を進めて来て、私はふと昨今ドイツのテレビ局が報道した内容を思い出した。広州大学地区の野蛮な強制立ち退きの愚挙のせいで、数百戸の農民が帰る我が家を失った。

本来自宅を所有していた彼らは今、どんな悪天候であろうと自分の立てた粗末なテントで夜を明かさなければならない。私を苦しめるのは、「愛」を声高に喧伝しているメディアと大物スターが、これら目の前にいて援助を求める同胞に関心を向けないことである。

 (続く)

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