『三国志演義』で有名な諸葛亮(181~234年、字は孔明)は、漢の霊帝の光和四年に琅邪郡陽都(現在の山東省臨沂市沂南県)に生まれました。両親を早くに亡くし、叔父に育てられました。天下大乱の時、兄弟そろって叔父と一緒に荊州(けいしゅう)に行き、「乱世の中、かろうじて生きながらえ、諸侯の中で名を上げることなど求めない」生活をしていました。
諸葛亮が結婚したのは25歳の時でした。古代、特に戦争で世の中が乱れていた頃は、15歳くらい、場合によっては13歳くらいで結婚するのが普通であり、彼のように25歳になってもまだ結婚していないのは珍しかったのです。また、彼は、条件からすれば、名家にとって理想的な婿であったにもかかわらず、何と黄碩(こうせき、『三国志演義』では黄月英、『三国志』では単に黄夫人)という不器量な女と結婚しました。
黄碩は、河南の名士・黄承彦の娘(一説には義娘)でした。名前の通り、頑丈な体付きで、髪の毛は赤茶けて、肌は黒かったのです。黄承彦は、諸葛亮の志はただ国を救うことにあり、彼が必要としているのは、徳と才能を兼ね備えた賢妻であって、名家の美人ではないと考えました。そこで諸葛亮に直接、娘との縁談を持ち掛けたところ、諸葛亮は、いとも簡単に承諾しました。実は、この結婚は、深く周到に考えを巡らした末での決断だったのです。
そこで、諸葛亮は自ら沔陽(べんよう)の黄府に赴きました。黄承彦は、家人に事前に、「諸葛殿がいらしたら、わしに伺いを立てることなく、奥の部屋へまっすぐお通ししなさい」と言いました。この特別待遇を受けた諸葛亮は喜び勇んで奥へ入ってきました。
ところが、はからずも、渡り廊下に突然2匹の猛犬が飛び出し、諸葛亮に襲い掛かってきたのです。声を聞きつけた侍女があわてて犬の頭を軽く叩くと、2匹の犬は襲い掛かるのを止めました。侍女がさらに犬の耳をちょっとひねると、犬たちはすぐにおとなしく後ろに下がって、しゃがみこみました。よく見ると、この2匹の猛犬は木製のからくり犬で、諸葛亮は思わず噴き出しました。
黄承彦は諸葛亮を厚くもてなしました。諸葛亮が2匹の木製の犬が精巧にできているのを褒めると、黄承彦は笑いながら、「あの犬は娘が暇つぶしに作ったものです。さぞかし驚かせてしまったことでしょう」と言いました。
諸葛亮が壁に掛かった「曹大家宮苑授読図」に目をやると、黄承彦はすぐに、「この絵は、娘がでたらめに書きなぐったもので、とても、その道の方にお見せできるようなものではありません」と言い、続いて、窓の外に咲き誇るきれいな草花を指して、「あの草花もみな、娘が自分で植え、水をやり、剪定をし、手入れをしました」と言いました。
木製の犬、絵、草花から、諸葛亮は、黄家の娘の性格や才能をはっきりと思い描くことができました。彼は、この娘こそ自分の探していた妻であると思い、すぐさま娶って家に帰りました。すると、近所の人たちは、「孔明の嫁選びを真似るなかれ、承彦の不器量な娘をもらうはめになるぞ」とあざ笑いました。諸葛亮が望みどおり、賢く徳を備え持った妻を娶ることができたということなど、誰も知る由もなかったのです。
黄碩は諸葛亮の家に嫁ぐと、自ら杵や臼を使い、畑仕事もしました。家の中や外の力仕事から細々とした仕事まで、全て上手くこなしました。また、諸葛亮本人が至れり尽くせりの世話を受けただけでなく、友人たちもしばしば隆中の諸葛亮の農場に泊まり、この不器量な奥さんの心のこもったもてなしを受け、我が家に帰ったかのようにくつろぎました。そのうち、この不器量な妻に対する周りの態度は、蔑視から無視へ、そして無視から尊敬へと、次第に変わっていったのです。
黄碩は、力仕事から細かい仕事までてきぱきとこなせるだけでなく、俗に入らない言葉遣いと話で、夫と飽くことなくいつまでも語らうことができました。正に智慧と品格を備えた女性でした。
諸葛亮は、6度祁山(きさん)に出陣し、中原を震わせた際、「木牛流馬」と呼ばれる新しい運搬道具を発明して、数十万の大軍の食糧を運搬するという難題を解決しました。
また、10本の矢を連続して発射できる「連弩(れんど)」と呼ばれる新式の武器を発明して、敵を打ち負かしましたが、これらはいずれも妻から作り方を教わったものです。範成大の『桂海虞衡志』(1812年)に次のような記述があります。
「諸葛亮が隆中にいるとき、友人がやってきた。ご飯が好きな者もいれば、うどんが好きな者もいたのだが、あっと言う間に、ご飯もうどんもできていた。その素早さに驚き、客が台所をのぞいてみると、数体の木のからくり人形が米をつき、木のロバが飛ぶように臼を引いていた。諸葛亮は妻に頼んでその作り方を教えてもらい、後にそれを元に『木牛流馬』を作った」
諸葛亮は濾水を渡り、南中に深く入って、孟獲を7度捕まえたことがありますが、その際、瘴気(熱病を起こさせる山川の悪気)を避けるために使われた薬、「諸葛行軍散」と「臥龍丹」も妻から作り方を教わったものです。劉備の三顧の礼を受けて、諸葛亮が劉備とともに生死をかけた戦いに出ている間、妻はいつも幼子の諸葛瞻(しょかつ せん)を連れて、隆中の家で静かに吉報を待っていました。蜀漢が益州の天府の国で戦いを繰り広げているとき、黄碩は、丞相夫人の地位にありながら、隆中で家人を引き連れ、家の周りに800株の桑の木を植え、生糸の生産を広めようとしていました。
丞相の地位にあった諸葛亮は、国と民を憂い、政務に多忙を極めていたため、子供の教育と躾は、自ずと黄碩に任されました。息子の諸葛瞻は後に綿竹を守るよう命ぜられ、鄧艾(とうがい)の兵が城下に攻めてきたとき、脅しや利益による誘いに乗らず、壮烈な最期を遂げました。その息子の諸葛尚もそのとき一緒に殉死しました。
晋代に天下が統一されると、諸葛亮の3番目の息子・諸葛懐が洛陽に招かれたのですが、その際、諸葛懐は、「私は成都に800株の桑の木と100ヘクタールの田畑を持ち、衣食には困りません。才能も無く、何のお役にもたてませんので、田舎に返してください」と上奏しました。晋の武帝・司馬炎(236~290年)はその意向に従わざるを得ませんでした。これらのことからも、諸葛亮の遺訓と諸葛夫人の遺沢が後代に伝わり、尚も神聖なる輝きを放っていたということがわかります。
諸葛亮は生涯、何をなすにも慎重で、ゆっくり着実に事を進め、誤算ということがありませんでした。彼は、黄碩を妻に迎えたことにより、生涯、後顧の憂いがなかったばかりか、事業の発展の点でも有力な支えを得たことになります。黄碩のおかげで、諸葛亮は、作戦計画を立てるに際して智慧を発揮することができただけでなく、子供たちのことについても賢明な選択をすることができました。一方、黄碩は、容貌を気にすることなく、古人の「女は才がないことを徳とする」といった考え方を打ち破り、夫を助け子を教え諭し、中華の女性の強靭で偉大な精神を大いに広めることとなりました。
諸葛夫婦のこの話は、「即席の愛情」を崇める現代の人々がじっくりと考えてみるに値するものでしょう。
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