スーダン:メロエの考古遺跡群
スーダンの首都・ハルツーム北に位置する金色に輝く砂丘の中に、クシュ王国のファラオ達が紀元前7世紀頃から紀元前3世紀頃までの間に建てたいくつもの小ピラミッド遺跡群があります。19世紀になってから、ようやく西洋の考古学者によって発見されました。
歴史書によると、紀元前1千年頃、古代エジプト王国の衰亡により、ナイル川中部に位置するスーダンの王・クシュは紀元前712年から657年の間、ナイル川流域を統一し、クシュ王国を立ち上げたと言います。初期の頃、何度もエジプト軍隊に侵入されていたため、エジプト文明に深く影響されました。
その後、メロエに遷都し、この時期のスーダンは歴史上、最も輝かしい時代を迎えました。紀元前350年頃、内紛により、クシュ王国は他国に滅ぼされました。
この千年余りの歴史の中で、メロエは常に最大の都市、宗教の中心、王族の所在地、そして、冠婚葬祭を行う場所でもありました。城外砂丘には224基の各時期の小ピラミッドが立てられており、ここはクシュ王国のナパタ文明(紀元前900年~紀元前270年)とメロエ文明の「歴史の証人」でもあります。
しかし、4世紀頃、メロエは徐々に衰亡していき、これらの小ピラミッドを深く考察することも難しくなったのです。
エジプトのピラミッドは主に石灰岩や玄武岩、花崗岩を使っていますが、スーダン一帯は花崗岩の産出がないため、これらの小ピラミッドは基本的に近場からとれる砂岩や泥岩を磨き上げて使用し、隙間を砂や角礫で埋めています。
メロエの考古遺跡群の小ピラミッドには20~30メートルの高さのものもあり、それぞれの間隔が狭く、繋がっているものもあります。エジプトのピラミッドと違って、側面は平らになっています。
しかし、2千年余りの年月の中で、ピラミッドの表面の風化が激しく、陥落部分もあり、全貌を把握することは難しいです。いくつかの遺跡では、ヌビア文字で掘られた銘文などが見られます。
紀元前200年頃、メロエ人はすでにメロエ文字を発明しました。それはヒエログリフ(エジプト文字の1つ)と似ていることから、エジプト文明の影響を受けていたことが分かります。50年前から専門家はメロエ文字の解読に努めてきましたが、まだ23個の符号しか解読できておらず、全てを理解するにはまだまだ時間がかかりそうです。
224の小ピラミッドには、クシュ王国、ナパタ文明、そして、メロエの歴史が埋葬されています。砂漠は昼夜の温度差が激しく、また強風や砂嵐などが、2千年余りの長い年月を重ねた遺跡群に常に脅威を与えています。
また、人為的な破壊も免れませんでした。19世紀から、墓掘のブームが始まり、メロエのほぼすべてのピラミッドが盗掘されました。中でも、1820年頃、イタリアの探検家が黄金を見つけるために、40もの小ピラミッドを荒々しく掘り返したことは、スーダン人の心を痛めました。
(つづく)
――正見ネットより転載
(作者・意文/翻訳編集・天野秀)
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