田児の浦ゆうち出でて見れば真白にそ不尽の高嶺に雪は降りける(万葉集)
田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ(新古今)
いずれも奈良時代の歌人・山部赤人(やまべのあかひと)の作。小倉百人一首のなかにもありますので、よく知られています。同じ歌2首のうち、元歌にちかいのは万葉のほうでしょう。鎌倉時代に編纂された『新古今和歌集』の同歌は、五百年を経た筆写の途中で自然に変わったとも考えられますが、おそらく鎌倉期の編集者が古歌を再録するにあたり、意図して書き変えたものかと思われます。
田子の浦という地名は、もちろん今日の静岡県富士市にあります。「田児の浦ゆ」の歌では、万葉仮名に従(ゆ)の字が当てられているので「田子の浦から出発すると」または「田子の浦を経由して行くと」の意。つまり、田子の浦とは別の場所で富士山を見たことになりますね。そこで、田子の浦から「舟で沖へ出て、海上から富士山を遠望した」という大胆な解釈もあります。
これに対して「田子の浦に」は、まさに到着したその場所から富士山を見上げたことになります。いかにも中世の歌人が好むような「そこへ着いたら眼前にこれが見えた」という、作られた筋立てになっていると言えるかもしれません。
末尾の違いも、「雪は降りける」ならば、はるか高い山上を見上げて「あそこに雪が降ったのだなあ」と過去推量する構図。一方「雪は降りつつ」になると、田子の浦にいる主人公の目に「富士山頂に降る雪が見えている」ことになります。現実にはありえないことですが、心象風景としては許容されます。
どちらが正解かではなく、本コラムの結論としては「どちらの歌も興味深いですね」となりますが、皆様は、いかがでしょう。
ところで読者各位のご在所から、富士山は見えますか。どうぞ皆様も令和の歌人になられて、お題「富士山」で1首おねがいします。僭越ながら、お先に一つ。
遠くから眺むればこそ美しき思い人にも似たるその嶺
(敏)
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