日本における漢方の始まりⅡ

日本における漢方の始まり I からの続きです

宋の時代(西暦1000年頃)に印刷技術が開発されると、多くの書物が出版物として世の中に広まるようになります。医書も数多く出版され、医学の知識は飛躍的にその水準を高めました。漢方について書かれた『傷寒論(しょうかんろん)』や『金匱要略(きんきようりゃく)』もこの時代に校正され、復刻されています。金元時代(1115~)から明(~1644)に至るまでの間、多くの臨床家や研究者が医書を出版しました。これらの医書は、安土桃山時代から江戸時代にかけて日本に持ち込まれます。

 15世紀頃には、明に渡った経験を持つ僧医たちによって民衆にも医学の知識が広がり、当時の先端医学として浸透していきます。しかし一方で、「それらの医学は中国の模倣に過ぎない」という意見が出始めるのもこの頃です。江戸時代に入ると社会と文化が成熟し、各方面で独自性を持つようになります。医学でも古方派(こほうは)が出現し、曲直瀬道三(まなせどうさん)を代表とする明医学に影響を受けた後世派(ごせいは)に対抗するようになります。

 古方派は、後漢時代に張仲景(ちょうちゅうけい)が著した『傷寒論』を重要視していました。古方派の代表的な人物、吉益東洞(よしますとうどう)(1702~1773)は、『傷寒論』と『金匱要略』の処方をまとめて、『類聚方(るいじゅほう)』を出版しました。当時この小冊子はベストセラーとなり、1万冊が刊行されたと言われています。その後、古方派の考え方は東洞の息子、南涯(なんがい)や弟子達に引き継がれ、日本の医学界に影響を与え続けることになります。

 ところが明治時代に入ると、社会全体が西洋の文化を尊重するようになり、漢方も医学界から締め出されてしまいます。一握りの医師、薬剤師、愛好家等により継承された漢方が見直されたのは、昭和の後半になってからでした。大半の漢方医薬品が『傷寒論』か『金匱要略』の処方であるのは、こういった歴史的背景が影響しているのです。

(吉本 悟)