中国崑崙山の仙人(8) 真体 (本当の体)

【大紀元日本1月2日】

前書


本文は、私が知り合った先天道を修めた平先生(500歳)の経歴を記録したもので、文章はすべて記憶によるものである。何人かの人の記憶を統合したもの、または私と平先生の間であった途切れ途切れのいくつかの対話を元に書いたものであるため、文の繋がりがよくないと感じるところもあると思われる。私はそれらを一つに統合し、論理的な文脈を整えるため、想像を使った文字を加える場合があったが、事実を離れた記述はない。平先生との経験から、私は世の中の多くの出来事は人が思っているものとはまったく違うということが分かった。本文を読んだ後、多くの人は考え方が変わると思う。

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五、真体

3回目に平先生と会ったのは、中学生の時だった。当時は80年代で、中国全土で気功ブームであった。点穴、太極に熱中した父は、今度は気功に夢中になった。彼は工場を管理しなくなり、どこかで気功師が講座を開き、気功を教えると聞いたら、即申し込み、全国あちこちへ出かけて行った。父は、様々な種類の気功を学び、気功の書籍や雑誌などが本棚をいっぱいに占めた。当時の有名な気功師たちと会ったこともあり、彼らとやり取りした手紙もたくさんあった。父はそれらの手紙を全部保存していた。

当時、だれかは知らないが、ある気功師が父に「食指弾神功」という気功を教えた。その気功師は、これは秘伝の功法なので、他の人に教えてはいけないと父に告げたという。父は、当時体の弱かった私にこの気功を教えてくれた。明け方3時になるとベッドから起き上がり、座禅を組んで、気功の動作を練る。頭の中で、なんらかの気が全身を貫通して、丹田を経て、両腕を経て、それから指先に着く、などとイメージするのだが、今はあまり覚えていない。最初の2日間は気功をするということに興奮して、定刻にちゃんと起きたが、3日目からは、もう起きられなくなった。父が呼ぶと、父を恐れて起きたが、こっそりと居眠りをした。座禅を終えると、外で指を練習する。最初は5本の指を練るが、だんだん減っていって、最後には2本の指だけを練る。そして、ハードルが高くなると、たった2本の指で全身を倒立する境地までに達し、さらには石を体につけて、倒立する。あの気功師の話によれば、根基が良ければ、1年あまりの時間でこの功法を身につけることができ、さらには2本の指で壁に穴を開けることができるという。

私は、父が監督しない時には、外で完全に眠っていた。父が私の練習を確認する時は、怠けていることが見抜かれるのを恐れ、歯を食いしばり、指の痛みを我慢しながら父にやって見せた。もう涙がでるほど痛かった。父は、満足した様子で、進歩したと言ってくれた。しかし、終わると10本の指が痛くてたまらず、朝ごはんの時には、箸さえまったく使えず、両手でさじを挟んでご飯を食べた。

幸い、父はあの気功師に、私も「食指弾神功」を練っていることを告げた。気功師は、18歳未満の人が練ると体を傷つけることがあり、発育不全の恐れがあると言った。びっくりした父は、急いで私にその気功をやめさせた。もう10数日も練っていた私は、やっと解放されたと思い、ほっとした。

平先生との出会いから、私は玄学や宇宙の探索などの分野に興味を持つようになった。中学生の時、学校の図書館は学生には解放されていなかったが、父が校長と多くの先生たちを知っていたので、私は先生の身分で図書館を利用することができた。私はそこで、一日中ずっと宗教や玄学、未解明の謎に関する本を探し出して読んだ。あの頃は、(※)改革開放(かいかくかいほう)が始まったばかりで、図書館はこれらの新しい本をたくさん導入し、私は多くのことを知ることができた。

3回目に平先生と会ったのは、中学校2年生の夏休みの時だった。夏休みであったが、私は依然として図書館で本を探し、読み続けた。学校から父の工場まではあまり遠くなかったので、お昼は父の工場に行ってごはんを食べ、夜は父の車に乗って一緒に家に帰った。

そんなある日、夕食を食べる時間となり、私はいつもの通り父と待ち合わせるために父の工場へ向かった。校門を出たところの道の脇にある人物が立っていて、私を見つめているのが見えた。よく見ると、私はびっくりした。彼は、私が5歳の時に見たことのある平先生であると感じたのだ。しかし、ただ感覚だけであって、5歳の時から長い間、ずっと彼と会っていなかったので、顔立ちも既に忘れ、確認できなかった。彼が私の名前を叫ぶと、私はやっと平先生であると気付き、感動のあまり急いで彼の元へ走って行った。彼は今も私の幼名を覚えていた。私がこの学校に通っていることを、彼はどうやって知ったのだろうか。家に寄ってから、ここに来たのですかと聞くと、平先生は頭を振りながら、偶然ここを通ったので、ついでに私を見に来たのだと言った。

私はもう少しで涙が出るところだった。幼いころから、なぜか平先生は、遥か昔の時の身内であるような感じがしたからだ。まるで、久しぶりに再会したかのようだった。彼はずっと私のことを覚えていてくれた。私は急いで彼を連れて、父に会いに行った。父も言うまでもなく大喜びし、平先生が肉を食べないことを覚えていたので、たくさんの新鮮な野菜を買って、一緒に家に帰った。

翌日、父は平先生を書斎の中に連れて行き、ここ数年間の気功に関する研究結果とメモなどを持って、彼にあれこれと聞いた。私も側で一緒に聞いた。しかし、彼はずっと頭を振りながら、とても厳粛な表情で、自分は他の修練の法門については知らず、自分の法門のことしか知らないと言った。修行する法門は数え切れないほど多いが、同時に二つの法門を修めてはならず、さもなければ、その人の体は損われてしまうというのだ。

※改革開放―1978年から中国で実施された経済政策。文化大革命後の経済を立て直すため、経済特別区の設置、人民公社の解体、海外資本の積極的な導入などが行われ、市場経済への移行が推進された。

(翻訳編集・柳小明)