【大紀元日本1月15日】「美」は、また「善」でもある。必ずといってよい。
逆もまた然り。善なるものを「美しい」と認識するのは、極めて正常な感覚と言える。
日本人にとって、富士山が美しいのは説明の要らない感覚であろうし、まもなく満開となる桜を好まない日本人は、おそらくいない。なぜか。
富士山も、桜の一輪も、その大小の差はあるが、本質的に「善」として太古の昔から存在するからである。その人工の及ばぬ美しさ、神々しさに、私たちは心打たれるのである。
一方、富士の裾野に粗大ゴミが放置され、花見の後がゴミの山になる現実がある。
日本人は本来、もっと奥ゆかしく、所作の美しい国民であると信じたいのだが、現状はそうではないようだ。「不善は醜い」という、もう一つの真理を肝に銘じなければなるまい。
美しい神韻公演を見て、私たちが何かに気づけば、まだ再生への希望はある。
(大紀元時報2009年3月26日号より転載)
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