【神伝文化】明君に三つの畏れあり

【大紀元日本6月4日】英明な主君には皆、かつて三つの畏れがあった。一つには、帝位にあって自らの過失を知らないこと。二つには、得意絶頂になって傲慢になること。三つには、金言を聞いて実行できないことである。『韓詩外伝』第7巻に、反省の大切さを悟った君主たちのことが書かれていて、一読に値するものがある。その現代解釈は以下の通りだ。

越王の勾践(こうせん、? – 紀元前465年)は呉国と交戦し、呉国を大きく打ち負かして、九夷を併合した。勾践は当時南方を平定すると、その衆臣を召集して、彼らに告知した。「呉王の夫差は、増上慢になって慎まず、過失を正さなかったので、国を滅ぼした。私は呉国滅亡の教訓を学び、今こそ政令を下す。私の過失を見て私にそれを告げなかったものは、これを犯罪として、極刑に処す」。

これは、帝位にあって自らの過失を知らないことを畏れた一例だ。

文公(ぶんこう、紀元前696年 – 紀元前628年、在位紀元前636年 – 紀元前628年)は、国と交戦し、大勝した。将兵たちは得意になって、楚の陣地を略奪して火を放ち、その大火は三日三晩続いて止む事がなく、多くの財を損なった。文公は退朝した後、非常に憂慮した面持ちを見せた。

従者たちは彼に質問した。「自軍は楚の軍に大勝しましたが、君主の貴方がなぜそのように憂えているのですか?」。文公はこれに答えて「勝利しても驕らず、欲しいままにしない。それでこそ、政権の長期的安定を望めるのだ。今、自軍は勝利したが、調子に乗って傲慢になり、傍若無人に振舞っている。これでは安定しない。そこが心配なのだ」と述べた。

文公は、勝ったからといって得意になり、傲慢になることを畏れたのである。

斎の桓公(かんこう、? – 紀元前643年、在位:紀元前685年 – 紀元前643年)は管仲、隰朋の2人の賢臣の補弼を得て、彼らにその是非を判断させ、道義をおし進め、治世は順調であった。

桓公は吉日を選んで祖先を祭り、ひざまずいて言った。「これは、祖先が私を加護し、2人の賢臣が私を補弼し、耳目になってくれているからです。引き続き、祖先から加護されることを願います。どうか、私が理によって事をなし、虚心で彼らの輔佐を受けることができるよう、独断専横がまったくないよう…」。桓公は、天下の道理、金言を聞いて、ただちに実行できないことを畏れたのである。古人は物慎みを提唱して、平和なときも困難や危険に備えて準備を怠らない。

当然、上で述べた王たちがはじめからおわりまでこれを堅持していたわけではない。これは、謙虚謹慎、帝位にあって慢心しないようにすることがいかに難しいかを我々に教えてくれる。

古人が言うところの明主の「三つの畏れ」とは、実際すべての人が重視すべきものだ。いったい誰が上述したようなことを考えるだろうか。勝っても、成功しても、自己の過失を知ろうとし、迅速にそれを改め、謙虚にして謹慎する。得意になって己を忘れ、勝手気ままに振舞えば、いつかその身を滅ぼすことになる。「金言を聞いてこれを行う」は、行動に移してこそ、実際の効果を期待できるもので、これを聞いても棚上げしないことだ。

(翻訳・太源)