【乾坤に生きる】太平天国の夢やぶれて②

【大紀元日本10月8日】秦の始皇帝時代の「陳勝・呉広の乱」以来、飢餓と圧政にたまりかねて蜂起した農民反乱は数知れないが、多くの場合、体制側によって短時間で鎮圧されてしまう。

ところが、古くは「五斗米道の乱」や「黄巾の乱」、清朝においては「白蓮教徒の乱」などのように宗教結社が決起した農民を指導して抵抗を続けることもあり、この場合には長期に渡って体制を脅かす存在となる。

いま広西省金田村から動きだした太平天国軍は、多分にキリスト教的な宗教性のつよい集団であったが、一方で、従来のような単なる体制への抵抗集団でもなかった。

彼らは、理想のユートピア太平天国を創出するという目標のもと進軍を続け、極めて禁欲的な規律をもち、これに違反した者は厳罰に処するとともに、部分的にではあるが土地の均分や男女平等を実施するなど独自の「政策」を打ち出した。

また儒教をはじめとする伝統文化の排斥などもおこなったため、その是非はともかく、太平天国は中国史上最初の革命政権と呼ばれているのである。

太平天国軍は、各地の流民を吸収しながら北上し、湖南から岳陽、漢陽、武昌、さらに長江を下って九江、安慶へと進み、ついに53年に南京を占領。ここを首都として天京と号した。

天王・洪秀全を頂点とする太平天国のこれまでの快進撃は、厳格な綱領と、疲弊した民心をつかむ求心力によるものであった。

しかし、天京に政権を建てたのちの太平天国は、「天朝田畝制度」に代表される革新性とは裏腹に、国家運営上の必要もあって、従来の王朝的機構と官僚支配にちかいものに変質していくことになる。

55年、北京攻略のため天京を発した北伐軍は、天津付近まで迫ったが大敗し、これを機に清朝と太平天国との力関係は逆転する。また太平天国内部においても、洪秀全の部下である王たちが血生臭い抗争を繰り返し、果ては洪秀全をも脅かし始めた。

その争いに見切りをつけた翼王・石達開は、57年に10万の部下とともに太平天国を離脱。天王・洪秀全は、かつての同志のほとんどを失った。また同時に、それまで太平天国を支えてきた民衆の強い信仰心が、大きくゆらぎ始めるのである。

こののち洪秀全は、若手の将軍を登用して態勢の立て直しをはかり、上海を目指して大軍を発すること2回に及んだが、外国人の指揮する部隊などがこれに反撃したため上海を攻略することはできず、さらに湘勇・淮勇などの漢人部隊に攻められ、太平天国軍の敗色は覆うべくもなくなった。

64年、ついに天京(南京)は完全に包囲された。食料が不足して飢餓地獄となった城内では、天王・洪秀全も率先して兵卒とともに野草を噛んで耐えたが、6月1日、洪秀全は病没。(一説に自害)7月19日、天京は陥落し14年にわたる太平天国の夢は散った。

宇宙の星がひとつ、流れて消えた。

歴史とは本来そのようなものであろうが、のちにこの国の覇権を握るものたちは、流れて消えた星さえも恣意的に利用して、歴史を政治の道具にしてしまうのである。

(続)