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私たちの考えはどこから来るのか

現代社会では、「自分の心の声に耳を傾けるべきだ」という考え方が繰り返し推奨されています。怒りを感じたら思い切り発散し、悲しみを感じたら、その感情をありのまま受け入れる。そして、ある物事が「しっくりくる」と感じたなら、それこそが行動に移すタイミングなのだ、と考えられています。

テレビ番組でも、「感情は心の羅針盤であり、本当の自分らしい人生へと導く道しるべである」という考え方が広められています。また、キャリアに関する助言でも、「心の声に従いましょう」という言葉は珍しくありません。

しかし、私たちの人生を左右するのは感情だけではありません。思考もまた同じです。私たちは今、「意見そのものが価値を持つ時代」に生きています。SNSへの投稿やポッドキャストでの分析、巧みなコメントなどが、情報の流れの中で絶え間なく行き交っています。社会は私たちに、「自分の考えを発信しなさい」と促し、自らの洞察や世界に対する見解を絶えず表現することを求めています。

では、そのような思考や感情は、どこまで本当に私たち自身のものなのでしょうか。心理学者ジョーダン・ピーターソン氏は、ある講演で、スイスの著名な精神科医カール・ユングの次の言葉を引用しました。「人が考えを持つのではない。考えが人を持つのである(People don’t have ideas—ideas have people)」

ピーターソン氏は、私たちの頭の中に浮かぶ考えの90%以上は、自分自身から生まれたものではないと考えています。それらは両親や教師、友人、そして長年の人生の中で内面化してきた価値観に由来しています。私たちが話したり考えたりしているとき、実際に語っているのは「本当の自分」ではなく、他人の考えが私たちの口を借りて表現されていることも少なくないのです。

このカナダの心理学者は、講演で次のように語っています。「これは非常に深く考える価値のある問題です。というのも、この問いを持つことで初めて、私たちは頭の中にある考えを見つめ、その源をたどり始めるからです。そして、その考えが、まるで舞台裏で人形を操る糸のように、私たち自身を操っていることに気づくかもしれません」

もし考えが本当に自分自身のものなのであれば、なぜそれらは勝手に頭に浮かび、ときには自分の意思に反して現れるのでしょうか。そして、止めたいと思っても、なぜこれほど止めることが難しいのでしょうか。

この問いに対して、科学は一つの答えを示しています。それが「デフォルト・モード・ネットワーク」です。21世紀初頭、ワシントン大学セントルイス校の研究者たちは、機能的磁気共鳴画像法(fMRI)を用いて脳を観察し、興味深い現象を発見しました。人が特定の作業に取り組んでいないときでも、一部の脳領域は活発に活動し続けていることが分かったのです。

この活動パターンは「デフォルト・モード・ネットワーク」と呼ばれています。この分野の第一人者である神経科学者マーカス・E・ライクルは、多くの研究を通じて、このネットワークが次の三つの中核的な働きを担っていることを明らかにしました。自発的な連想の流れ、自己参照的思考、そして、記憶の想起です。

即使我们并未投入任何具体的事务,部分脑区也依然会保持活跃。(Jelena Zelen/Shutterstock)
私たちが特定の作業をしていないときでも、一部の脳領域は活動を続けています。(Jelena Zelen/Shutterstock)

分かりやすく言えば、デフォルト・モード・ネットワークは、私たちが過去を振り返ったり、未来を思い描いたりしながら、思考を自由に巡らせる働きを担っています。しかし、それでもなお、最も根本的な疑問には答えていません。こうした考えはいったいどこから生まれるのでしょうか。

デフォルト・モード・ネットワークは、何もないところから考えを生み出しているわけではありません。それは、人生を通じて蓄積された記憶や経験を編み合わせ、結び付け、一つの思考として形づくっているにすぎないのです。
 

外部からの声はどのように内なる独り言になるのか

ロシアの発達心理学者レフ・ヴィゴツキーは、その著書『思考と言語(Thinking and Speech)』の中で、私たちの内なる声は自然に生まれるものではないと述べています。むしろ、それは幼い頃に周囲から聞いていた外部の声に由来するというのです。

幼い子どもは、最初は親や養育者、友人など、他者と意思疎通を図るために言葉を使います。そして3~7歳頃になると、遊びや問題解決をしている最中に、自分自身に向かって声を出して話し始めます。ヴィゴツキーは、この現象を「自己中心的言語」と呼びました。この言葉は、もはや他人だけに向けられたものではなく、自分自身の行動を導く役割も果たしています。例えば、「今、この積み木を取って……それから塔を作ろう……」といった具合です。

やがて、この自己中心的言語は次第に声に出されなくなり、心の中へと移っていきます。子どもは声に出さなくても、自分自身に語りかけるようになります。そして、私たちが「思考」と呼んでいる内なる声が形成されるのです。

しかしヴィゴツキーは、この内なる言語には特徴があると指摘しています。それは、簡潔で凝縮され、断片的であるということです。例えば、「机の上の鉛筆を取って字を書かなければならない」と、頭の中で完全な文章を作る必要はありません。内なる言語では、「鉛筆……書く」といった短い形で十分なのです。

重要なのは、言語そのものは個人が発明したものではないという点です。子どもは自分だけの語彙や文法を作り出すわけではなく、すべて他者との交流を通じて身に付けます。一人でつぶやいているときでさえ、それまで耳にしてきた言語の型を使っているだけなのです。言葉や文型、自分の行動を口に出す習慣に至るまで、すべては以前から存在する社会的な言語環境に深く根差しています。つまり、私たちの頭の中で聞こえる声の本質とは、外部の声が内面化されたものなのです。

これと同時に、社会や道徳に対する期待も、私たちの中へ取り込まれていきます。ジークムント・フロイトは、これを「超自我」と呼びました。この人格構造は幼少期に形成され、最初は親の権威を受け入れることから始まり、その後、教師や模範となる人物などの価値観も内面化されていきます。そのため、人によっては、頭の中の声が親や幼い頃に影響を受けた権威ある人物の声のように感じられることがありますが、それはごく自然なことなのです。

この内なる声は、あたかも「自分のもの」であり、自分の頭の中に存在しているように思えます。しかし、それを自由自在に操れるわけではありません。精神分析学によれば、人間の心理活動の大部分は、意識の外側で行われています。フロイトの有名な言葉があります。「自我は、自らの家の主人ではない(The ego is not master in its own house)」

つまり、意識がすべてを支配しているわけではありません。潜在意識から生まれる精神的な力は、私たちの意識に支配されることなく、直接、私たちの思考を形づくっているのです。

我们的内在声音源自我们从童年起所接收到的外部声音。(Tomsickova Tatyana/Shutterstock)
私たちの内なる声は、幼少期から耳にしてきた外部の声に由来しています。(Tomsickova Tatyana/Shutterstock)

 

私たちに自由意志はあるのか

考えがすべて私たち自身の意思で「選ばれた」ものではないことから、研究者たちは、自由意志や思考の主体性について改めて問い直し始めました。

例えば、心理学者ダニエル・ウェグナーは、自分の意思で行動しているという感覚は、多くの場合、錯覚にすぎないと指摘しました。脳はまず潜在意識によって思考や行動を生み出し、その後になって、私たちは「自分が考えた」「自分が決めた」と主観的に認識するというのです。この考え方は、フロイトが以前から示していた見解とも一致しています。つまり、潜在意識こそが、私たちを通して「語り」「考えている」ということです。

もっとも、ウェグナーはフロイトの理論を根拠にしたわけではありません。彼の主張は、さまざまな分野で行われた実証研究や実験に基づいています。その中でも、この問題を最も分かりやすく示した古典的な実験が、カナダの脳神経外科医ワイルダー・ペンフィールドによって、1930~1950年代に行われました。

ペンフィールドは、意識がはっきりしたままのてんかん患者に対して脳の手術を行う際、脳そのものには痛覚がないことから、大脳皮質のさまざまな部位に弱い電気刺激を与え、患者に何を感じたかを説明してもらいました。

運動野が刺激されると、患者の手や足、あるいは顔が自然に動き出し、ときには、自発的に行ったかのような複雑で協調的な動作を見せることもありました。しかし、患者たちはその動きについて、「自分の意思で動かしたのではない」と答えました。

例えば、「先生が私の手を動かしたのであって、私は動かそうとは思っていませんでした」というように語ったのです。この実験は、複雑な動作であっても、本人の「自分で動かした」という感覚がなくても、直接引き起こすことができる可能性を示しました。

言い換えれば、「自分の意思で行った」という感覚は、行動の原因ではなく、脳が行動を起こした後から付け加えられる印象にすぎない可能性があるのです。

大脑通过潜意识产生思想和行动,而随后我们才后觉地产生主观意识。(Gorodenkoff/Shutterstock)
脳は潜在意識によって思考や行動を生み出し、その後になって、私たちは主観的な意識を持つようになります。(Gorodenkoff/Shutterstock)

 

1980年代には、神経科学者ベンジャミン・リベットの有名な実験も、この発見を裏付けるものとなりました。リベットは参加者に、自分の好きなタイミングで指を曲げ伸ばしし、「今、動かそう」と思った瞬間を記録してもらいました。

その一方で脳波を測定したところ、本人が「動かそう」と意識する約0.5秒前には、すでに脳がその動作の準備を始めていることが分かりました。つまり、「今決めた」という主観的な感覚は、神経活動が始まった後になって生じるものだったのです。

とはいえ、リベットは自由意志そのものを否定したわけではありません。彼は、脳は意識より先に活動を始めるものの、意識は実際の動作が起こる約200ミリ秒前には現れるため、その短い時間の中で行動を止めることができると考えました。彼はこの能力を「拒否権」と呼びました。

私たちの多くの考えや行動は、自分で意図的に始めたものではありません。しかし、それでもなお、それを実行しないという選択は可能なのです。リベットは次のように記しています。

「この『拒否権』可能性の存在は疑いようがない」そして、多くの人が、思いついた考えをその直後に自ら抑え込んでいることを指摘しました。

哲学的に見れば、これは、私たちの責任は頭に浮かんだ考えそのものではなく、それを止めるか導くか、そして、どの考えを実際の行動へ移すかを選択することにある、ということを意味しています。この考え方は、多くの道徳や宗教の教えとも一致しています。それらは、思考そのものを完全に制御することよりも、自制心を持つことを重視しているのです。
 

神々、ミューズ、そして悪魔

ときには、頭の中の声や考えがあまりにも強烈で、自分のものとは思えないほど異質に感じられることがあります。精神病理学では、幻聴や「思考吹入(誰かに考えを頭の中へ押し込まれたように感じる現象)」などが数多く報告されています。

こうした症状は、特に統合失調症でよく見られます。しかし、「思考や内なる声は外部から来るものかもしれない」という考え方は、医学だけに限られたものではありません。それは、哲学や古典文学、さらには宗教文献にも一貫して見られるテーマです。古来、多くの賢人たちは、人間の理性やひらめき、直感は自分自身から生まれるものなのか、それとも神々やミューズなど、外部の存在から授けられるものなのかを問い続けてきました。

その中でも、最もよく知られている例の一つが、ソクラテスに関する記録です。

プラトンの『対話篇』には、ソクラテスが生涯にわたり、自分の内側に一つの声を感じていたことが記されています。彼はそれを「ダイモニオン」と呼びました。その声は常に警告という形で現れ、ある行動を思いとどまらせることはあっても、「こうしなさい」と命じることは決してありませんでした。

プラトンは、ソクラテスが裁判で行った有名な弁明を、次のように記しています。「皆さんは、私がたびたび、ある神のお告げ、あるいは徴について語ってきたことをご存じでしょう。メレトスが私を告発した際にも、それを嘲笑しました。その徴とは、一つの声です。それは幼い頃から私と共にありました。私が何かをしようとすると、その声は、ただ思いとどまるよう警告するだけで、何をすべきか命じることはありませんでした。そして、その警告のおかげで、私は政治の世界へ進まずに済みました。今となっては、それがいかに賢明だったかが分かります。アテナイの皆さん、もし私が若い頃から政治に携わっていたなら、とっくに命を落とし、誰の役にも立たなかったことでしょう」

无论我们将其理解为道德理性的权衡,还是某种神圣力量的显现,我们都曾听过那指引或警示我们的内心声音。(vangelis aragiannis/Shutterstock)
それを道徳的な理性の働きと捉えるにせよ、神聖な力の現れと捉えるにせよ、私たちは皆、導きや警告を与えてくれる内なる声を耳にした経験があります。(vangelis aragiannis/Shutterstock)

 

歴史を通じて、ソクラテスの「ダイモニオン」はさまざまに解釈されてきました。プラトン学派はそれを神聖な守護霊とみなし、初期キリスト教の著述家の中には、守護天使と考える者もいれば、人を惑わす悪魔だと批判する者もいました。

また、それは単に、ソクラテスの良心や道徳的直感を詩的に表現したものにすぎないと考える人もいました。プラトン自身は、この問題について明確な結論を示さず、後世の人々の判断に委ねています。

しかし、一つ確かなことがあります。それは、このような体験そのものは実際に存在するということです。私たちがそれを道徳的理性の働きと考えるか、あるいは何らかの神聖な力の現れと考えるかにかかわらず、誰もが一度は、自分を導いたり警告したりする内なる声を耳にしたことがあるでしょう。

ソクラテス自身は、その声を自分だけのものではなく、自らの内に宿る神聖な力の現れだと考えていました。古代の人々もまた、詩人や芸術家のひらめきは本人だけの力によるものではなく、ミューズや神々の導きによって与えられるものだと信じていました。

例えば、ホメロスの『オデュッセイア』は、冒頭でミューズに祈りを捧げ、詩人の口を通して物語を語ってくれるよう神々に願っています。

また、プラトンの対話篇『イオン(Ion)』では、ソクラテスはさらにこの考えを発展させ、詩人を神から授かった霊感を伝える存在として描いています。ミューズが詩人の魂に触れ、詩人は情熱に満ちて歌い、その神意を人々へ伝えるというのです。

つまり、詩や霊感は本当の意味では詩人自身のものではなく、神々が詩人を通して表現したものだということです。同様の考え方は『聖書』にも見られます。預言者たちは神の言葉を伝える際、しばしば次のように語ります。「主の言葉が私に臨み、こう告げられた……(And the word of the Lord came to me, saying)」

預言者たちは自ら思想を作り出したのではなく、神の言葉を聞いたのです。それは、モーセが燃える柴の前で聞いたような実際の声であることもあれば、幻や、ごく繊細な心の体験という形で現れることもありました。数百年後、ロシアの小説家フョードル・ドストエフスキーは、この考えをさらに暗い視点から描き出しました。

小説『カラマーゾフの兄弟(The Brothers Karamazov)』では、苦悩する知識人イワン・カラマーゾフが、悪魔と長い対話を交わします。しかし、その悪魔が実在する存在なのか、幻覚なのか、それとも精神疾患による投影なのかについて、作品は最後まで明言していません。

悪魔はイワンの分身として現れ、彼の疑念や絶望、皮肉を語ります。まるで内なる声が、独立した人格となって姿を現したかのようです。イワンは叫びます。「お前はただの幻だ! お前は私の分身ではあるが、私の一面――私の思想や感情、それも最も卑しく愚かな部分を表しているにすぎない。だからこそ、時間を無駄にしてまで相手をする価値があるなら、少しは興味を持てるかもしれない」

ところが、その後の対話は次第に奇妙さを増していきます。悪魔、つまり内なる声は、イワン自身ですら意識していなかったことまで語り始めるのです。イワンは驚愕して叫びます。「そんなことは、私が考えつくはずがない!」すると悪魔は鋭く言い返します。夢の中では、「私」、すなわちあなた自身の心が、これまで一度も考えたことのないことを語る場合がある。しかし、それでも夢の中の悪魔は、結局のところ、あなた自身にほかならない、と。

ドストエフスキーは、別の小説『悪霊(Demons)』でも、この考えを象徴的に描いています。神性を捨てた過激な思想は「悪霊」として具象化され、若者たちの魂をむしばみ、彼らを支配していきます。

彼にとって、集団的なイデオロギーとは、まるで異質な存在のように人間の意識に巣食う、闇の精神的な力だったのです。

2019年10月23日,莫斯科市中心,一名女子捧书漫步,身侧便是俄国作家费奥多尔‧陀思妥耶夫斯基的雕像。(Dimitar Dilkoff/AFP via Getty Images)
2019年10月23日、モスクワ中心部で本を手に歩く女性。その傍らには、ロシアの作家フョードル・ドストエフスキーの像が立っています。(Dimitar Dilkoff/AFP via Getty Images)

 

体に刺さった矢を抜く

著名なスピリチュアル指導者であり、自己啓発作家でもあるエックハルト・トール氏の講演で、ある女性が次のような質問をしました。「嫉妬や競争心、恐れといった感情が湧き上がるのですが、それは本当の自分ではないように感じます。これらの考えはいったいどこから来るのでしょうか。それとも、これが人生というものなのでしょうか」

トール氏は、仏教の有名なたとえ話を用いて答えました。「かつて誰かが仏陀に、同じような質問をしました。すると仏陀は、こうたとえたのです。あなたの体に一本の矢が刺さったとしましょう。ところが、あなたはその矢を抜こうともせず、『誰が射たのか』『なぜ射たのか』『矢はどこから飛んできたのか』と調べ始める。この話が教えているのは、今最も大切なのは矢を抜くことであって、その由来を追究することではない、ということです」

仏教では、思考は無常であり、それ自体に固定した「自己」は存在しないと考えます。瞑想とは、思考が生まれ、消えていく様子をただ観察し、それに執着せず、縛られないことを学ぶ実践なのです。

仏教は、ここから第三の見方を提示しています。思考は内側から来るものでも、外側から来るものでもなく、それ自ら生じ、自ら消えていくものであり、永続する「自己」に属するものではないという考え方です。その後、トール氏はさらに、現代的な形而上学による説明を加えました。

「あなたの考えの多くは、本当はあなた自身のものではありません」彼は、その女性にこう答えました。「それらは集合的な心から生まれています。それは、私たちの周囲に存在するエネルギー場、あるいはエネルギー体のようなものであり、独立して漂う『思考形態』と考えることもできます。その中のある思考が、あなたの内側にある感情――例えばネガティブな感情――と共鳴すると、その感情と結び付き、それをさらに増幅させます。だからこそ、ほんの些細な不満が、あっという間に激しい怒りへと膨れ上がることがあるのです」

冥想旨在让人学会观察念头的起灭——任其来去,而不为其所缚。(leungchopan/Shutterstock)
瞑想は、思考の生滅を観察し、それらをそのまま行き来させながら、とらわれないことを学ぶためのものです。(leungchopan/Shutterstock)

 

トール氏は、いわゆる「個人の心」は、実際には私たち自身よりもはるかに大きなものであり、自我の外側に存在しながらも、絶えず私たちに影響を与えていると述べています。

多くの考えは、あなた自身が生み出したものではありません。それに伴う感情もまた同様です。たとえその渦中にいるときには、それらが自分自身のものだと感じられるとしてもです。彼は次のように語っています。「集合意識が国家全体をどのように飲み込んでしまうかを見れば分かります。例えば、旧ソ連や毛沢東時代の中国では、何百万もの人々が、まるで同じように考えていました。現代社会も同じです。集合意識はメディアを通じて広がり、人々のほとんど無意識な思考習慣となっています。このことに気づかなければ、その代償は極めて大きなものになるでしょう」

結局のところ、私たちは、自分の頭に浮かぶ考えが誰のものなのかを知ることはできないのかもしれません。それは自分自身のものなのか、他人から受け継いだものなのか、潜在意識によるものなのか、それとも集合意識から生じたものなのか――。しかし、自分の思考に気づき、それを見つめ、心の中の声がどこから来ているのかを問い続けることができるなら、その時点で私たちはすでに、より大きな主体性を手にしています。

おそらく自由とは、思考を完全に支配することではありません。自由とは、自分の思考を見極め、それに従うかどうかを自ら選ぶことにあります。そして、思考が静まり返るとき、その後には穏やかな安らぎが訪れるのです。

本記事は Epoch Magazine(イスラエル版)に掲載された記事を翻訳したものです。

(翻訳編集 解問)