半世紀ぐらい前のことです。昭和時代の中期だと思ってください。
ちょうど今のような、夏休み期間中の思い出です。学校のある普段はあまり気がつかないのですが、朝方の心地よい涼しさにひかれて早起きすると、楽しい「町の音」が聞こえてきます。
一番早かったのは、やはり新聞を配達する自転車の音です。確か、まだオートバイではなかったですね。それにしても毎朝きちんと定時に、各戸へ朝刊を届ける日本の新聞配達さんというのは、すごいものだなと当時から思っていました。
その次は、遠くから近付いてくるのが聞こえる「わっさりぃ、しじみぃ」の独特な売り声です。その日の早朝に、千葉の海で獲れた新鮮なアサリやシジミを、天秤棒の振り分けにして担ぎ売る行商さんでしたが、今考えると「あれは江戸時代の名残りかな」と思わせるような懐かしい記憶です。町のお豆腐屋さんも毎朝「とーふー」と聞こえるラッパを鳴らし、自転車で売りに来ました。自転車は「実用車」という種類の、がっちりした黒い三角フレームの荷役用です。
アサリも、シジミも、お豆腐も、油揚げも、朝の食卓のみそ汁の実になります。売り声やラッパが聞こえると(私の母親もそうでしたが)近所の奥さんたちがボウルを手にして家の前まで買いに出るのです。
もちろん、みそ汁は、きちんと鰹節や煮干しからとった天然だし。鍋に放り込む「顆粒だし」なんてものは、まだなかったのです。各家のお母さん方は、さぞや手間がかかって大変だったと思いますが、天然だしのみそ汁を家庭で体験したことは、今思えば、私の子供時代の幸福の一つでした。
朝に聞こえてくる、もう一つの「音」がありました。町の牛乳屋さんが、自転車の荷台にビン入り牛乳を満載して、顧客のお宅へ配達にくるのです。売り声はありませんでしたが、荷台の牛乳ビンの鳴る音が、決して不快な音ではなく、爽やかな江戸風鈴の音のように心地よく聞こえたものでした。
それが半世紀前に聞いた「朝の音」です。令和の今、どの音を思い出しても懐かしく、たまらないほど心が引かれます。それはなぜかと考えてみると、あれは「健康で働き者の日本人が、一日の始まりを告げる音」だったからなのですね。
牛乳については、一時期、テトラパックという三角の紙パックの時代がありましたが、今はほとんどが四角いブリックパックになっています。ガラスのビン入り牛乳は(今もまだあるとは聞いていますが)日常で見る機会は本当に少なくなりました。
「銭湯の湯あがりに、腰に手を当て、胸を張って飲む」。これがビン入り牛乳の「正しい飲み方」だそうで、私も賛同しています。「ヤブ蚊じゃあるめえし、ストローなんぞで牛乳が飲めるか」というのは、ちょっと口のわるい江戸っ子の負け惜しみですが、時代は移り変わるものですので、ガラスの牛乳ビンが消えていくのは仕方ありません。
牛乳というのは、私は好きなのですが、人によっては乳糖不耐症など苦手な体質の方もいますので、一概にその善し悪しを言うことはできないようです。
日本人が広く牛乳を飲むようになったのは明治以降であり、その歴史は欧米に比べて圧倒的に短いのですが、ともかく昭和の日本人は「牛乳は体に良い」と固く信じていました。学校給食も「パンに牛乳」だったので、私は「ご飯の給食」は経験していません。
昭和の母親の「子供に栄養を摂らせたい」という愛情は、まさに卵と牛乳に象徴されるのですが、そんな牛乳については、別の見方もあります。
つまりは牛の乳なのだから「もともと人間が飲むものではない」とか、欧米人はともかく「日本人の体質には合わない」とか、果ては「肥満になる」「発ガンのリスクを上げる」などの否定意見まで出されました。牛乳と日本人との関係は、風にさざめく湖面のように揺れながら令和の現在に至っています。
ただ、私に医学的エビデンスがあるわけではありませんが、天が恵んだ五穀と同じように、古来より神が人類に家畜の乳酪をもたらしたのですから、牛乳は、どこの国の人もありがたく飲んで良いものだと思っています。
中国語の漢字で乳は「奶」と書きますが、台湾には、この字がつく飲料が多いのです。
ずらりと列挙すると、牛奶(牛乳)豆奶(豆乳)米奶(でんぷん質の温水)燕麦奶(エンバクミルク)核桃奶(クルミミルク)椰奶(ココナッツミルク)開心果奶(ピスタチオミルク)花生奶(ピーナッツミルク)榛果奶(ヘーゼルナッツミルク)豌豆奶(エンドウ豆ミルク)杏仁奶(アーモンドミルク)等々。
つまり台湾では、必ずしも牛乳や家畜の乳類でなくても、植物由来で飲用可能な乳状の液体もふくめ、総じて「奶」をつけて商品化しているということのようです。
よく知られているように、牛乳のメリットは良質なタンパク質とカルシウムを補給できることですが、そのような栄養学的な利点だけではありません。
例えば、精神的ストレスから胃に痛みを感じたときなどに、温めた牛乳を一杯、ゆっくり目を閉じて飲んでみてください。どんな薬を飲むよりも、牛乳のほうがはるかに体に優しく、胃の痛みを嘘のようにとってくれます。
腰に手を当てて、ぐぐっと飲む痛快さとはまた別の、もう一つの牛乳の味わい方です。
(鳥飼聡)
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