繁栄を極めた中国歴代王朝。その中でも、南宋の庶民の暮らしの中に文化の真髄が反映されていました。当時、周辺諸国の憧れの的だった南宋には使節団がひっきりなしに訪れ、中国で一生を終えたいと願う国王も多くいたと伝えられています。しかし、彼らが見たのはあくまでも表面的な部分です。目に見えない本質の部分こそが、「中華文明の神髄」であり、数千年間の繁栄を維持し続けた根本となるものです。
中国の皇帝は大きな宮殿に住み、強権政治を行ってきたと現代人は思いがちですが、実際はどうだったのでしょうか。宋王朝の首都、開封(かいほう)の宮殿は、そんなに大きくはありません。986年、宋の太宗は宮殿を拡張しようと思い、劉延瀚(りゅう・えんかん)という武将に民家の取り壊しを命じました。この武将は中央軍の指揮官であり、皇帝の腹心の部下でした。しかし彼は、百姓が取り壊しに反対しているという理由で、皇帝の要請を断りました。「宋史」によると、皇帝はその後、計画を断念したと伝えられています。昔の皇帝といえども、大臣や民衆の考えを尊重しなければならず、好き勝手に振る舞えたわけではなかったのです。
民意を尊重した宋王朝では、平民にも一定の権利が与えられていました。最もみじめな境遇にいる者でも、生活はそんなに苦しくはなかったのです。
「捨て子」も保護された 充実した社会福祉
南宋時代に書かれた随筆「夢梁録」によると、当時の慈善事業は高い水準だったということが分かります。南宋時代には「慈幼局」が開かれ、家庭が貧しい子供や、母親を亡くした乳幼児、捨て子などを政府が保護し、乳母を雇い衣食の世話をしました。子供たちが成人すると、好きな職業につくことができ、政府も彼らに返済を強制することはありませんでした。民間人がそれらの子供を引き取るときは政府から補助金が出て、一か月に銭一貫、米三斗が支給されました。米三斗は約26キログラムにあたり、銭一貫は一両の銀と同等の価値があります。つまり、一年で十二両の銀がもらえたのです。
明代に書かれた「売油郎独占花魁」という小説には、南宋の庶民の生活が描かれています。その主人公である油売りの秦重(売油郎)は、灯油の運び屋をしていましたが、一年の収入は銀十三両でした。つまり、政府からの補助金は、肉体労働者の一年分の稼ぎに近い額だったのです。油売りの秦重は銀十三両でも不自由なく暮らせたのですから、当時の社会福祉の水準の高さが伺えます。
慈幼局はふつう施薬局の隣に置かれました。施薬局は政府による慈善事業の一つとして、政府が毎年十万両の銀を出資していました。施薬局は軍の監督下に置かれ、その医療水準は高かったといわれています。『宋史』によると、当時の臨安(りんあん)は南宋の首都であり、「世帯数39万1259戸、人口124万760人」という世界有数の大都市でした。
軍人への待遇も非常に手厚いものでした。彼らには政府から銭と米が支給され、春と冬には衣服の支給もありました。任務を行う時には「口券」と呼ばれる一種の手当てが支給され、任務を果たした時には賞金がもらえました。新兵が入隊すると「関会」と呼ばれる手形や衣服をもらい、軍人の家族は毎月部隊から食糧の配給を受けました。兵士が戦いで勝てばボーナスが支給され、戦死すると家族は補助金をもらいました。
政府の慈善機構のみならず民間の慈善団体やボランティアのような活動をする者もいました。銭塘県と仁和県には十二の「漏澤園」という共同墓地があり、行き倒れた人や親族がいないため葬式を行えない人はそこに埋葬されました。宋王朝の政府が徳のある二人の僧侶にこのことを任せました。
人なつこくて情に厚い杭州の人々
一方、杭州城には各地からやってきた商人が住み着きました。善良な人は、商売が上手く行かず困っている人に金銭や物資を援助して助けました。雪などの悪天候の時には裕福な人が街を歩き回って飢えや寒さに苦しむ者がいないかを確認し、夜になると細かい銀を貧乏人の家のドアの隙間に置きました。また、余った衣服や寝具を物乞いや貧乏人にあげる人もいたといいます。当時の言葉で言うと、「善い行いをする者にはあまたの善事が起こり、天神が護る。悪を為すものにはあまたの災いが降りかかり、鬼神が災いする。善に報い悪を懲らしめる天の行動は非常に素早い」ということです。
今でも、杭州の人々は義理人情に厚いと言われています。他所から来た人が困っているのを見ると、助けずにはいられないのです。引っ越してきた人がいると隣近所は日用品を贈るなどして手厚くもてなします。さらには歓迎会を開いて、交流を深めることもあり、これは「暖房(部屋を暖める)」と呼ばれています。
人間関係が希薄化している現代、かつてのような暮らしから学べることも多いのではないでしょうか。
(翻訳編集・文亮)
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