東京六本木と言えば、六本木ヒルズ森タワー、ミッドタウン・タワー等の高層ビルが聳え立ち、大使館や外資系企業が集中し、落ち着いた雰囲気のお洒落な大人の街のイメージが強いのですが、歴史的観点から見れば、六本木は意外にも武家地であり、兵舎や軍事施設等がある等、戦や戦争と深い関係をもつ地なのです。
六本木の名前の由来は古木の松が6本あったという説がありますが、上杉、朽木、高木、青木、片桐、一柳という「木」の名が付く大名屋敷が6軒あったことが由来であるという説もあります。
一、毛利甲斐守邸跡地である毛利庭園
六本木ヒルズ内にある毛利庭園。その歴史は江戸時代に遡ります。1650年、初代長府藩主毛利秀元(秀元は1595年に甲斐守となっていた)は麻布日ヶ窪の地(現在の六本木六丁目)に上屋敷を設けました。
その後、1702年に赤穂事件が起こり、吉良邸に討ち入り後、赤穂浪士の岡嶋八十右衛門ら10人が毛利家に預けられました。そして、1703年2月4日、その10人は同屋敷で切腹します。
1849年11月11日には、藩邸の侍屋敷で後に明治帝に殉死する陸軍大将・乃木希典が生まれ、9歳まで上屋敷で暮らしていました。
池や渓流のせせらぎがあり、四季折々に変化する植物を楽しめる毛利庭園という場所で、想像を絶する過去があったとはとても想像できません。
二、乃木坂にある旧乃木邸
陸軍大将乃木希典(1849~1912)の邸宅は乃木坂駅を出てすぐの場所にあります。日清・日露戦争を戦った乃木希典は明治帝崩御の後に殉死するまでここで暮らしていました。大正元年(1012年)9月13日、明治帝の大喪の礼が行われた日の午後8時頃、乃木は自宅において、古式に則って切腹し、明治帝の後を追って自決しました。享年62歳でした。その時、妻の静子も共に自刃しています。
乃木将軍の遺言により、東京市に寄贈された邸宅地は現在乃木公園として開放されています。隣接する乃木神社には、将軍が殉死の際に使用した刀や勲章、遺言状などが展示されており、当時の壮絶な場面が静かに物語られています。
三、六本木近辺は日本軍の軍事施設だった
明治維新により藩が消滅すると、武家屋敷の多くは国有地となりました。現在の国立新美術館の敷地は、大日本帝国陸軍の所有となり、1889年(明治22年)から第1師団歩兵第3連隊が駐屯し、六本木ミッドタウンの敷地には、歩兵第1師団が駐屯していました。歩兵第3連隊の兵舎は、1928年(昭和3)年に、陸軍としては初となる、鉄筋コンクリートの3階建てに改築されました。
ここは1936年2月26日に勃発した「二・二六事件」の舞台でもありました。
1936年2月26日の未明に、雪が降りしきる中、国家改革を目指して決起した青年将校約1400名は、歩兵第3連隊と歩兵第1連隊の兵舎から飛び出し、六本木から夜の都心を駆け抜け、首相官邸などを襲撃し、大臣を次々と暗殺しました。クーデターが未遂に終わり、青年将校たちは軍部によって鎮圧され、首謀者19名が処刑されました。
六本木近辺の軍事施設はやがて太平洋戦争中の空襲で焼失し、終戦に伴い、日本の占領にあたった連合国軍に接収されました。
四、日本国憲法草案審議の地
地下鉄の南北線「六本木一丁目駅」で下車し、徒歩4分程度の所に在日サウジアラビア王国大使館がありますが、その隣の境界に、「日本国憲法草案審議の地」の碑が建っており、その石碑には以下のような内容が書かれています。
「この地は、1946年2月、連合国軍総司令部と、日本国政府との間で、日本国憲法草案について審議された跡地である。この地には、(財)原田積善会の本部があり、戦後に外務大臣官邸として使用されていました。当事者に総司令部側代表として、民生局長ホイットニー准将、民生局次長ケーティス大佐の両名で、日本側は当時の外務大臣吉田茂と法務大臣松本烝治であった」
日本国憲法草案をめぐる会談が六本木一丁目のこの場所で行われていましたが、残念ながら、今、その面影は何も残っていません。
五、日本を代表する街・六本木
武家屋敷の跡に造られた日本庭園や仏閣があり、下町情緒が漂う商店街が残され、歴史と伝統を感じさせてくれる街でありながら、六本木は多くのグローバル企業の拠点として、また、約60ヶ国もの駐日大使館が所在する街として、多くの文化が融合する唯一無二の場所にもなっています。そして、六本木は若者文化の発信地としても有名になりつつあります。
六本木のけやき坂によって命名されたアイドルグループ「欅坂46」と、その姉妹グループ「乃木坂46」は、若者たちに絶大な人気を得ています。日本のメディアに「民主の女神」と称される香港の民主活動家・周庭(アグネス・チョウ)氏(23)は今年9月10日に、香港国家安全維持法(国安法)違反の容疑で逮捕され、保釈後に取材に応じた際、拘束されている間、大好きな「欅坂46」の「不協和音」の歌詞が頭に浮かんだと話していました。
戦や戦争、あの苦しい時代はもう二度と返って来ません。六本木はこれからも、豊かで、平和で、何不自由なく、幸せに暮らせる街であり続けてほしいものです。
(文・一心)
(看中国より転載)
ご利用上の不明点は ヘルプセンター にお問い合わせください。