【漢詩の楽しみ】 題慈恩塔(慈恩の塔に題す)

【大紀元日本6月16日】

漢国山河在
秦陵草樹深
暮雲千里色
無処不傷心

漢国(かんこく)山河在り。秦陵(しんりょう)草樹(そうじゅ)深し。暮雲(ぼうん)千里の色。処(ところ)として心を傷めざるは無し。

詩に云う。漢代から今に残るものといえば、この山河があるのみ。秦の始皇帝の陵(みささぎ)も草木が深く茂っている。千里まで広がるようなこの夕暮れの眺めは、どこに目を向けても、私の心を悲しませないものはない。

作者は荊叔(けいしゅく)というが、その生没年も経歴も分からない。詩も、明代に編纂された『唐詩選』のなかに表題の一首が遺されているのみである。

ただ、この詩を味読すると、およそいつごろの作品かが見えてくる。

文学史では唐代(618~907)を初唐・盛唐・中唐・晩唐の4期に分ける。その中で、盛唐と中唐との間には巨大な歴史の谷間がある。

慈恩塔とは大慈恩寺のなかの大雁塔(だいがんとう)のことで、玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典を保存するため652年に建立された。言わば、唐の最盛期を象徴する建造物の一つである。

しかし安禄山の反乱(755)では、玄宗皇帝みずから四川へ都落ちする大失態を演じた。大乱は8年の歳月をかけてようやく平定されたが、その後の大唐帝国に、もはやかつての栄光はなかった。これが唐王朝の隆栄と衰退を二分する谷間となった。

表題の詩にみられる「漢国」「秦陵」は、最盛期の唐を暗喩する。これらは、単に朝廷をはばかっての言い換えではなく、斜陽の世の詩人が抱く強烈なまでの追憶が、紀元前の王朝の名をかりてほとばしったものに違いない。この追憶の情は、中唐および晩唐の詩文の特徴である。

その意味で、杜甫の「春望」に本歌取りしたこの詩が中唐以後の作品であることは確実だが、詩にただよう無常観から想像すると、唐滅亡にちかい晩唐の詩であるとみてもよいかも知れない。

(聡)