【党文化の解体】第4章(16)

【大紀元日本6月10日】

4.党文化がなければ、もはや正常な話し方や思惟ができなくなっている中国人

3)人々の生活習慣になる党文化の闘争的意識

伝統的な中国人の考え方では、儒家は人を愛することを講じ、すなわち「己所不欲勿施於于人(己の欲せざる所を人に施す勿かれ)」であり、仏家は人に善を為すことを講じ、道家は自然にしたがうことを講じる。しかし、今日の大多数の中国人は、五千年の歴史を誇る中華文明の歴史を階級闘争と権力闘争の歴史であるという中共による決め付けを相当な程度で賛同している。今日の多くの中国人からすれば、さらに数多くの知識人も、中国の輝かしい二十四史は、ただ一つの互いに腹を探り合って暗闘に満ちた、互いに騙し合った、権力のために互いに排斥し合った等の腹黒で詭計に満ちた歴史であるに過ぎないと思っている。しかし中国人は皆、歴史の勉強は人の志を明らかにし、道理を明確にし、智慧も増すことができると信じている。もし中国の歴史が本当に中共が言っているような詐欺や腹黒が満ちた歴史であれば、人々はどうして志を明らかにし、道理を明確にすることができるであろうか。このような暗黒で愚かな民族が、どうしてかつてのような輝かしい古代文明を創り上げることができたのであろうか。

人々が見た外部の世界は、実のところ正しく自己の内心世界の反映である。所謂「仁者見仁、智者見智(仁の人は仁を見て、智の人は智を見る。物事に対する見方は人にとって異なる)」である。党文化の闘争的意識から「武装」された頭の人が見た中国の歴史は当然闘争と殺し合いの歴史であり、当然のことに、唐堯禅譲(※1)の美徳、大禹治水(※2)の無私の心、将・相和す(※3)の寛容大度の心を見ることもできないばかりでなく、屈原の剛直たる性格(※4)を評価することもできなし、蘇武牧羊の気高い節操(※5)、文天祥の忠誠たる心(※6)、岳飛の精忠報国(※7)を見ることもできないのである。

今日の中共は、「階級闘争を綱領とする」を言わなくなったが、人々の物事を判断する価値観は依然として「階級分析」の影響を受け、「すべてを疑え」「深層にある思想的動機を掘出せ」は、今まで多くの人が物事を判断するときの第一次的反応となっている。六・四天安門事件(学生による民衆化運動を武力で鎮圧)を分析するとき、学生リーダーたちの動機が不純であったため、彼らは一切の責任を取らなければならないと反論する。却って武力で鎮圧した中共は何の責任もなくなった。海外の有識者が中共が中国人に対して犯した犯罪行為を暴露したとき、その動機は中国に恥をかかせるものだと反論する。却って中共の罪悪は事実であったかどうかはもはや重要でなくなる。農民工(農民による出稼ぎ労働者)が一年の辛労をかけてもらえたはずの収入が騙され、仕方がなく自殺や飛び降りなどで給与を求めようとするとき、その動機は一種の「演技」であるから、法律を作り上げ、それを裁かなければならないと皆に言い聞かせるが、却って給与を無理に先伸ばした当事者やこのような悲劇をもたらした社会制度は法的責任を取らなくて済む。中共が発動した「大躍進」運動により、四千万人が餓死により死亡者を出すほどの悲劇、その動機は「イギリスを追い越し、アメリカを追い掛け」をするためであると言うから、却って中共の罪悪行為は許してしまう。

中国人の思惟は党文化の影響を受け、党文化によって支えられている。党文化の中で、弁証法は階級闘争を講じ、進化論は弱肉強食を講じ、簡単に中国の歴史を血まみれの闘争史であると決め付け、これらはすべて中国人に「闘」の意識を深めてしまった。中共は度重なって、暴力を核心とする共産文化を植え付け、何代の人々に讐恨に満ちた、殺し合いを望む「無産階級の闘士」「社会主義的新人」「党に服従する道具」として作り上げた。中国人の「闘」の意識はすでにその思惟の中で主導的作用を果たしている。中国人同士間の「内なる闘い」はすでに公認された事実である。足を引っ張り合って、命欠けの闘争、中国人の生活法則は所謂麻雀の法則と化してしまった―上家を防ぎ、下家を見張り、自分が和なくても、他人に和せない。誰か業績が上がったら、往々にして排斥され、中傷する。みんなは賢人を見たらそれに向かって努力するのではなく、嫉妬により精神的に不安になってしまうのである。そのため、壇上では握手し、壇下では足を引っ掛ける。所謂「闘い」は利益のためだけではなく、相手の人格を破壊させることが目的である。使用される手段も中国人の悪い智慧の集大成であり、極められたものであり、いかなる規則も無視する。

この種の党文化的非正常な思惟の下で物事を解決しようとするとき、往々にして第一念的にはまず「人を懲らしめる」、「人を打倒する」、「人をやっつける」、「圧力によって臣服させる」、「気勢上においては相手を勝る」、「主導権を握る」、「強制的に相手を自己の意志に従わせる」。言語上の現われとしては言葉の中では闘争の意味を含んだりすることである。もはや正常な人々が考えられる範囲を超えている。言語体系全体の主導的要素は「闘い」である。語気の中には疑問、反問、挑発的意味を含み、言葉によって相手を刺激させる。話がこれ以上通じなければ、往々にしてむやみやたらとからんだりして、道理を講ぜず、むやみにしても道理を通ろうとする。

ある人は次のような実験をしたという。台湾と中国大陸の学生にそれぞれに、もし部屋の中へ入って、暑いと感じて、窓を開けようとするときどういう風に言うかと質問したところ、台湾から来た学生は、大体「ちょっと暑いから、窓を開けても大丈夫でしょうか」と聞く。これに対して、中国大陸から来た学生は、「こんなに暑いのに、何で窓を開けないの」と聞く。両方の答えは似ているような内容ではあるが、反問文口調の言い方は相手を受動的立場におかさせる。まるで窓を開けていないことは異常であり、過ちであるかのように聞こえる。しかし中国大陸からの学生のような言い方をした人はわざとそういう言い方をしているわけではないかもしれない。その理由は正しく党文化の闘争の心はすでに人々の表現習慣の中に深く入り込んで、人々はこのような表現の習慣に慣れてしまって気付かなくなったのである。

多くの人は、知識人も含めて、国家のことについて議論するときのむやみにごねるような態度、独り善がりやすべてを懐疑する態度などは、理性を持って平常心で交流することができないことである。すべてを懐疑すると言っても、なぜか共産党についてだけ懐疑しない。共産党の悪いところを言ったら、どの政党も悪いことをすると言い返す。中共は自己の利益のため全面的改革を阻止していると言ったら、それは国情の限界によるものであると言い返す。共産党が人権迫害をしていると言ったら、証拠を出せと言い返す。今度証拠を出したら、その証拠を信用するものかと言い返す。共産党が好きだと言っても、なぜか財産や子息を全部中共が統制下の中国から外へ送り出す。言論の自由が好きではないと言ったら、いつも西側の言論自由をもって共産党のために弁護する……。次のような皮肉なことがあるという。共産党の多くの悪事を列挙したとき、全部否定してしまい、むやみにごねって、中共のために理由付けを探し、証拠はどこにあるとかを聞く。中共は犯人の気管を切断すると言ったら、信じようとしないし、誰がそんな面度なことをするの?布を突っ込んだらおしまいだと反論する。インターネットでも調べられるよと言ったら、誰かそれを見たのとか、ネット上のことも信じるのとかを威張って言い返す。しかし、張志新という名前を言い出した途端、漠然として、初めて思い出せたのは、なんと共産党自身も大げさに認めていた張志新(※8)を処刑した直前に彼女の気管を切断したという事実だ。

(続く)

※1:唐堯氏は中国古代の伝説三皇五帝の一人、禅譲とは、地位(ほとんどの場合は皇帝)を血縁者でない有徳の人物に譲ることを意味する。

※2:4000年前、黄河流域は大洪水に見舞われ、大禹が洪水を治める功績により大衆の信望が厚く、当時の華夏族の首領・舜は帝位を大禹に譲った。大禹が治水するとき、粗衣粗食で治水のために働き、妻・涂山氏が禹の息子・啓を生まれる時、禹は家の外で赤ちゃんの啼き声が聞こえたが、仕事のために家を寄ることなく仕事に没頭した。大禹治水の物語が代々伝えられている。

※3:戦国時代、趙国の老将・廉頗は宰相の位になった藺相如に嫉妬し、事あるごとに、藺相如ともめごとを起こそうとする。廉頗は、藺相如が個人のことよりも国事がもっとも大事である、と言っていた事を耳にし、廉頗は自分の恥を知り、以後藺相如と力を合わせる物語である。

※4:春秋戦国時代を代表する詩人であり、政治家としては秦の張儀の謀略を見抜き踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して入水自殺し、人生の幕を閉じたのであった。

※5:蘇武は紀元前一世紀の中国漢の使節団を率いて匈奴へ入り、匈奴の上層の内乱に巻き込まれ、拘束されるようになった後、匈奴の王はやさしい手段でも強硬な手段でも蘇武を勧誘することができなくて、ますますその節操を尊敬するようになった。蘇武を殺そうともしないが、自分の国へ返すこともしたくないことから、シベリアのバイカル湖一帯に流刑し、羊を飼うことを言い渡した。十九年も羊を飼っていた蘇武はやがて中原へ戻ることが果たせた。漢の都では、民族の節操に富んだこの英雄に敬意を示した。蘇武の気高い節操は中国人の倫理人格の手本と、民族文化の心理的な要素となっている。

※6:滅亡へと向かう宋の臣下として戦い、宋が滅びた後は元に捕らえられ何度も元に仕えるようにと勧誘されたが忠節を守るために断って刑死した。

※7:中国南宋の武将。南宋を攻撃する金に対して幾度となく勝利を収めたが、岳飛らの勢力が拡大することを恐れた宰相・秦檜に謀殺された。その功績を称えて後に鄂王に封じられた。その背には母親によって彫られたとされる入れ墨の「精忠報国」の四文字があったという。

※8:張志新(1930~1975)は中国共産党党員、遼寧省党委宣伝部幹部。文化大革命の最中にあった1969年、毛沢東を批判したため6年間にわたって監禁された後に処刑されたが、刑場に連れてこられても所謂「反革命」的な発言をしていたため気管を切断して声を出せなくしてから処刑された。