【大紀元日本4月26日】
小学校低学年 (1994年9月~1997年7月) お迎え拒否症
イギリスの学校では、学校側の責任は、校門の内側まで。外側からは親の責任ということで、低学年は親かおばあちゃんが毎点xun_齔l一人の子供の送り迎えをする。集団登校や集団下校というのはない。
そして、お友達を家に呼びたくても、私にはクラスメートの親の詳細が分からない。プライバシー保護のためか、基本的に物事を流れに任せる文化だからか、連絡簿というのは皆無だった。
校庭で娘を待っている時、他の親と話しながら、遊びの約束とかをアレンジする。娘が仲良くなった子が、一人っ子で、家の近くに住んでいることを発見したので、早速、紙切れに印刷した自分の電話番号をお迎えに来たお母さんにテキパキと渡して、「よかったら遊びに来て」とアプローチした。
ところが、翌日、校庭に顔を出したら、さりげなく、そのお母さんが私から離れていく。「避けられている」ということはボディーランゲージから明らかだった。何日か続いた後、私の方が悶々としてしまい、3時頃になると落ち込む「お迎え行きたくない」症が現れて来た。
そんなある日、私に仕事が入り、どうしても3時のお迎えに行けなくなり夫が代わりに迎えにいくことになった。子供同士は 「キャッ、キャッ」と走り回りながら下校する。その後ろを親がついていく。そして、初めて夫と一緒に子供たちの後ろを歩くことになったそのお母さんの最初の言葉が、「あなたはコーンウォール人?」だったそうだ。そして、夫がどこそこの農場で働いていたと答えたら、彼女のお父さんは隣村の漁港の競り市場で働いていたということで、なんのわだかまりもなく会話がはずんだとのこと。
翌日からは避けられることもなく、地元と結婚した人として、普通に私を受け入れてくれるようになったが、小心者の私にわだかまりができてしまい、わざと離れるようにゆっくり歩いてみたりして、自分の心を溶かすのに多少の時間がかかった。夫からは、よそ者ばかりがやってきて、自分の文化が失われていくコーンウォールの人々の気持ちに立ちなさいと諭された。
ロンドンから移り住んで来たというシングルマザーにも、 同じような形で知り合ったその日に電話番号を渡したが、とても喜んでくれて、即座に遊びの約束が取り交わされた。
東西文化の違いというより、都会と田舎の感覚の差から生じたできごとだったようだ。コーンウォール人として受け入れられるようになるのは三世代かかると言われる。「20年住めば、コーンウォール人だよ」と言ってくれる人もいた。 実際、20年経つと、一人の人間の生誕から成人までを知ることとなり、コミュニティーで自分の位置が確立する。親しくしていた人の葬式に一緒に行って、思い出話をしみじみと語り合った根っからのコーンウォール人に、「いつでもお茶に来て」と言われるようになったのは、やはり20年後だった。私の中のものがコーンウォールにすっかり溶け込んだという感覚もあった。
最近は、都会から移り住んでわずか2、3年しか経っていないのに、大きな顔でああだ、こうだと地元のことに口出しする人をみると、「避けたい」と思うようになってきた。
(続く)
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