【大紀元日本1月31日】自身も大いに反省するのだが、なかなか人は自分の行為の後々まで責任を持つことができない。
昼食の弁当の空きパックを、とりあえず目についた駅のゴミ箱に捨てたとする。ここに捨てていいのかなと3秒ばかり躊躇するものの、中へ押し込んでしまった後は、目を閉じ、耳を塞いで足早に立ち去る。実際には目を閉じないが、そのような気持ちで去るのだ。
なぜか。そのゴミと自分との間にできた「関係」を断ち切って、知らぬふりをする我が身を、誰かが上から見ているのではないかとふと思うからである。
神に見られているという意識。それは人を正し、社会を清潔にする原動力だ。
舞台とは通常観客が見るものである。しかし神韻の場合、時に観客のほうが見られているのではないかという不思議な感覚をおぼえるのだ。むろん良い意味で、である。
(大紀元時報2009年7月23日号より転載)
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