【大紀元日本8月18日】中国においても日本においても、「杏林」という言葉はよく名医の代名詞として使われている。その由来に関して、中国北宋時代に編集された『太平広記』(たいへいこうき)に詳しく記されている。
『太平広記』(第十二巻・董奉)の記載では、「杏林」という言葉は、三国時代の名医であった董奉の故事から出ている。董奉は後漢末から三国時代にかけての東呉の名医で、医術に優れ、卓越した医術で病気をたちまちに治し、高尚な医者として道徳の修養で世に知られていた。董奉と華陀、張仲景は同じように高名であり、「建安の三名医」として称えられた。
後に董奉は豫章の廬山に隠遁した。彼は山中にて耕作をせず、毎日のように病人をみたが、一文も取らなかった。ただ、重病の人が完全に癒ると、董奉はその患者に杏子の樹五株を植えさせ、病状が軽い人の場合は一株を植えてもらった。このようにして数年が過ぎると、植えられた木は十万株になり、一面は盛大な杏の林となっていた。彼は山中の鳥獣をすべて杏林の中で遊び戯れさせたため、木の下には雑草が生えず、まるで鋤で草を取り去ったかのようであった。
毎年、杏の実が成熟すると、董奉は杏林の中に草で倉庫を一つ葺き、その前に「もし杏を買いたい人がいたら、私にことわる必要はありません。一缶分の穀物を倉庫の中に置いていけば、同じ量の杏をもっていって結構です」という看板を設置した。あるとき、ある人が倉庫に入れた穀物より多くの杏を持っていこうとした。すると、杏林から突然虎が現れ、この人を追いかけた。この人は杏を手にして急いで逃げ出したが、途中で七転八倒して、家に帰って杏の量を量ると、残った杏は倉庫に置いた穀物とまったく同じ量であった。また、ある人が杏を盗んで逃げたが、虎がその人を家まで追いかけ噛み殺した。死者の家族は杏を盗んだためだと知り、杏を董奉に返して、心から過ちを認めると、董奉は死者をまた生き返らせた。
董奉は毎年のように杏の実を売って得た穀物をすべて、貧しい人の救済、旅費の足りない旅人のために使った。こうして毎年貧しい人々に提供した穀物は二万升余りにも達した。董奉は三百歳余りで世を去ったが、その容貌は三十歳のようであったという。
董奉は医術に秀でていたが、名利を重んぜず、人のために善行を尽くした。彼の崇高な医徳は人々に崇敬され、代々伝えられ、「杏林」が道徳の高尚な医者の代名詞となったのである。
ご利用上の不明点は ヘルプセンター にお問い合わせください。