中国伝統文化の本質を論ずる(中)

【大紀元日本7月5日】周公がたてた別の歴史的功績は、「制礼作楽」だ。周公は、殷の礼を基礎に、伝統的な礼制、礼儀を厳密化、系統化し、全体的に新たな基準に到達し、当時の社会に適合した優秀な文化制度を創造した。それには、一連の社会的、政治的システムが含まれ、さらにはそれに見合った道徳倫理の規範と文化教育の方式があり、一つの完全な典章制度を形成した。それは「周礼」或いは「周公の典」と呼ばれた。

周朝の礼楽文明は、ずっと後世社会の模範と見なされ、上古社会の黄金時代であると考えられた。孔子はこれを賛嘆して、「周朝は、夏商二代の礼儀制度を参考にした。なんと多彩なことだろうか!私は、周朝の礼儀制度に賛成だ」と述べた。(『論語、八佾』)

礼は道徳の表現形式である。周公は礼儀を通して人の社会における行為を規範し、人が徳行を保持し、天道と合一できるようにした。これゆえ、王維国は周朝制度の変化を「その要旨は上下において道徳を納めることにあり、天子・諸侯・卿大夫・庶民を合して一つの道徳的な団体とすることである。周公が制度を定めた本意は、実にここにあった」と認識している。

梁漱溟はさらに、「周孔教化」を道徳をもって宗教に替わる文化であるとし、歴史上の中国社会は倫理本意の社会の思想であると考えたが、これは王維国の見方と同じであった。近代の王、梁二人の著名な学者の見方は、周礼と周朝文化の実質を明らかにした。

周公は、「徳を明らかにし、罰を慎む」を主張し、「徳治」「制礼作楽」を提唱し、「礼治」を実行した。これは正に、孔子が寝ても覚めても追い求めた、「人民を徳によって導き、礼で規制する」という治国の理念であった。(『論語、為政』)。

周朝社会が連綿と800年続いたのは、正に周公の治国理念を貫徹したからである。このような社会の中で生まれた豊富な道徳的土壌の中では、当然のこととして、社会道徳の精鋭や社会の中核をなす人が作り出された。彼らの大部分がしっかりした知識を持ち、高度な道徳的涵養のある人たちであって、善悪の判別能力があり、政治に携わる有能な人材や道徳の理想を実現する勇気がある。

日常生活の中では、彼らは立ち居振る舞いが上品で、社会道徳の手本であった。社会と国家が危機にさらされた際には、彼らは劣勢を挽回しようと、礼楽を正し、制度を定め、鋭意改革に努め、周王室あるいは諸侯の国中で、その特殊な才能をいかんなく発揮した。

例えば、周厲王、周宣王の時の邵穆公、仲山父、周平王の時の鄭武公、周定王の時の単襄公がそうであり、列侯の国には、孔子、管仲、寧戚、蔵文仲、狐偃、趙衰、趙宣子、韓献子、範文子、伍挙、文種などがいる。彼らはいずれもその当時に育成された大徳の士であり、その時代に非凡な功績を残し、後世に名を留めた。

彼らの周りには、同じく道徳的な情操をもった立派な行いをする人たちが大勢いて、彼らと同様に人生の価値を追求し、君子のような人格的輝きを放っていた。まさに、これらの社会の精鋭と中核になる人たちが、後の中華文化の人格的基礎を決定付けた。そして、彼らの高尚な道徳的人格は、歴史の過程においてますます突出し、彼らの道徳的精神は永く残され、周朝の道徳的な隆盛は、世人が追憶するものとなった。

周公は、その時代の精鋭の人々の中でも突出した存在であり、彼の人格的な魅力と品性は世が挙げて仰ぎ見るものだった。孔子はかつてこういった。「己を修めて人を安んず」、「己を修めて民百姓を安んず」、「民に広く施しては衆生をよく救う」といった境地は、尭、舜でさえもおそらく到達しえなかったものだが、周公はやりとげた。

周公は自身の品格、道徳、理念、才能とその功績によって、中華民族のために理想的な人格模範を提供したわけだが、これが彼の中華文化に対する偉大な貢献である。

周公と彼の時代は、充分に道徳一体の文化精神を実践し、孔子以前の儒道の光り輝やきを顕し、中国の伝統文化の根幹となった。そして、儒家はちょうどこの文化精神を継承して発展したのである。この文化精神は、中華民族の価値理念であり、中華民族とその文化の最終的な追求と理想的な境地を表している。それは、民族の行動様式と思考様式の出発点であり、その終着点でもあり、民族の心理構造と文化構造にも深く影響し、中華文化の基礎を固め、中華文化の発展のために方向を定めている。その方向とは、道徳文化であり、その特性は道と徳に対する追求である。

(続く)